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 「必然性」と「個性」

 しかし、もし創作がそういうものだとしたら、つまり「作者は作品の奴隷だ」としたら、作者の才能とか経験とか想像力とかは、それにどういうふうに関与して行くのか?
 ある設定のもとでの小説の進行が、その状況と人間性との関係の中での「必然」を探ることなら、唯一の必然は誰が探っても同じになるはずで、作者の才能とか個性の出る幕はないじゃないか、という疑問が生まれるのは当然でしょう。

 それについては、私はこう考えます。ある状況である人間が直面する分かれ道が、普通に考えると、二者択一しかないと思われた場合でも、想像力の豊かな作者とか、あるいは人生経験の豊かな作者にとっては、二者ではなく第3、第4の道も思い付ける、ということは有り得ます。

 一例として、主人公がそのシーンでは普通、泣くか怒るか、どちらかしかないと思われたのに、作者によっては、主人公が笑うことも有り得るのではないか、と思い付くかもしれません。しかし、そう思い付いても、直ちに主人公を笑わせることが出来るとは限りません。その思い付きが無理ではないか、この主人公には有り得ないことではないか、と入念に検討を重ねる必要があります。つまり、新しい飛躍した思い付きがいかに魅力的だからといって、直ちに作者はそれに飛び付けるわけではないのです。その意味でやはり作者は作品の奴隷であり、作中人物の奴隷です。しかし、少なくともその場合、二者択一ではなく、もっと多くの選択肢を、想像力や人生経験の豊かな作者は持てる、ということになります。

 そして、例えば、そのシーンで、主人公が泣くか怒るかする代わりに笑うことが不自然でなかったとしたら、その後のストーリーの進行は、当初の想定とはだいぶ違った方向へと展開していくことになるでしょう。

 P177

 発見のための方法

 では、どうして作者はそんな作業をしなければならないのか。
 「書くことは私にとっては人生を理解する方法である」(ナディン・ゴーディマ)「自分の 信念にゆさぶりをかけるために書く」(遠藤周作)
 「重要なことは、物語を『発明』することではなく、そこに世界や人間を『発見』することだろう」(平田オリザ)

 総じて、小説とは、作者がこれまで生きて来た行程で獲得した信念とか人間観とか人生の真理とかを、読者に向かって提示するものだ、と思われがちかもしれません。だが、ここに引用した言葉は、それとは正反対のことを述べています。創作とは、今まで作者が獲得したものを吐き出した結果なのではなく、創作それ自体が、作者が新しく何かを獲得する方法なのです。

 「自分の信念にゆさぶりをかけるために書く」とは、つまり、作者が人生の体験や思索から、いちばん正しいと信じるようになったことを、そのまま、「これが正しい」と読者に向かって主張するために小説を書くのではなく、逆に、その信念に最も都合の悪い設定を作中にしつらえて、その中で、作者と同じ信念を持つ主人公を行動させ、そうすることで、その信念が本当に正しいのかどうか、主人公が最後までその信念を持ちこたえることができるのかどうか、を検証してみる、という作業のことでしょう。

 そうすることで、自分の信念の欠陥を自分で発見する場合もあるでしょうし、逆に自分の信念がそれによってますます鍛えられ、どのような批判にも、どのような困難にも耐えられる強さを持つことになる場合もあるでしょう。

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 ドストエフスキーの例

 例えば、ドストエフスキーは、熱心なキリスト教徒でしたが、信仰や神の問題を作中で扱う時には、常に、「罪と罰」のラスコーリニコフとか、「カラマーゾフの兄弟」のイワンとか、「悪霊」のスタヴローギンとかいった、優れた、そして魅力的な無神論者を必ず登場させます。しかも、そんな人物たちのほうが、作者の信仰を作中で担っていると思われる人物たち(例えば「罪と罰」のソーニャとか、「カラマーゾフの兄弟」のアリョーシャとか)よりも、ずっと重厚な存在感を持ち、ずっと思索の深さと人間的魅力を感じさせるほど見事に造型されているのです。これこそはまさに「自分の信念にゆさぶりをかけるために書く」ことの典型でしょう。もし、ドストエフスキーが自分の信念に都合のいい人物たちだけしか作中に登場させなかったとしたら、確かにそれは自分の信念の「説明」には最適な方法ですが、しかし、それでは、書くことによって、作者はなにひとつ変わることはなく、彼の信念は傷つかない代わりに書く前と何一つ変わらぬままで、深まりもせず、磨かれもしなかったことでしょう。

 こうしてドストエフスキーの作品は、信仰の書として読むことも出来ると同時に、無神論の書としても読むことが出来るものとなりました。名作とは、なにかしらこうした二重性を持っているものだ、とは前にも述べました。

 かくして、ある場合には、信仰を意図して書かれた小説が作者にとっては心ならずも無神論小説になり、無神論を意図して書かれた小説が心ならずも信仰小説になり、革命小説は心ならずも反革命小説になり、反革命小説は心ならずも革命小説になるーそういうものこそ、真の創作と言えるものではないでしょうか。

 つまり、小説を書く、ということは、作者のこれまでの人生体験で得たものを開示してみせる作業、というよりは、実人生では体験出来なかった、あるいは体験し足りなかった、新しいもう一つの人生を、書くという作業によって体験することなのだ、ということです。つまり、紙の上で、実人生とは違うもう「つの入生を生きてみる、という言い方も出来るし、または、紙の上で、ある新しい人生体験のシミュレーションを、作者の想像力を駆使して行うものだ、とも言えるでしょう。

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 神様が降りてくる

 ただ、残念なことには、私が主張するような、こうした小説の書き方は、常に可能だというわけではありません。むしろ、実際に小説を書く時には、こういうふうな書き方が出来なかった場合のほうが大部分なのです。それは、私は勿論のこと、優れた作家の場合でもそうだろうと思います。実際には、作者の最初の意図の通りに、最後までそのまま進行してしまう、という場合の方が普通です。ただ、時偶、作品が作者の意図を超えて、思いもかけない展開を示し、思いもかけない結末を迎えるような書き方が出来る場合がある、ということです。それを、私は勝手に「小説の神様が降りてきた」と表現していますが、世に言う秀作とか名作とかは、そんな生まれかたをした作品なのでしょう。残念ながら、私に降りてきてくれるのはだいぶ小さな神様なので、なかなかそこまではたどりつけませんが。

 つまり「神様が降りてくる」ようなチャンスは、そうしょっちゅうあるわけではないのですが、しかし、そんなチャンスに恵まれた場合には、是非それを生かしたいものです。しかし、それは意外に難しい。つまり、前述のように人はどうしても自分の最初の意図に固執しがちなものであって、せっかく神様が降りて来たのに、神様より自分を優先しがちです。

 これは、ストーリーに限った話ではなくて、小説を書いて行くうちに、その中から、最初には思いもよらなかった新しいテーマが浮かび上がって来る場合があります。そんな時でもやはり、初めに定めたテーマに固執して、せっかく発見出来た新しいテーマを異物として除いてしまうとしたら、それもやはり神様より自分を優先することになるでしょう。だからといって、そんな場合新旧のテーマをそのまま混在させておけばいい、というものではなく、新しいテーマに則して、作品全体を再構成し、根本的に書き改める必要があるのはこれも前述しました。

 小説作法、というと、能率的に小説を生産する方法、といったようなイメージを抱かれる方も居られるかもしれませんが、じつは、私の意図は、このように、たいへんに非能率的な小説の作り方へのお勧めなのです。