P182
その原因を取り除くためには、移ろいゆくすべてのものごとへの執着を断滅し、人間に対する愛着や愛欲を断滅し、持続して存在する「私」があるという錯覚を完全に消し去ることが必要である。それを可能にする方法は「八正道」と呼ばれ、原始仏教の実践の根幹をなす。それは、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行ない、正しい生活、正しい努力、正しい思念、正しい精神統一、の八つである。
まず大前提として、あたかも持続して存在する「私」があるかのような錯覚を消し去ることが必要である。日常生活では、どうしても、「私」という自己同一性を持った実体があるように感じてしまうのだけれども、それは間違っているということを、理屈で理解し、心の底から納得しなければならない。
「永遠不変の自我であるわけではないのに、何ものかをそのように思い込んでいる」という状態から脱出しなければならないのである。『ウパニシャッド』では、私はアートマンを知ることによって不滅の世界に入るのであった。
しかしブツダは、何かがそのようなアートマンであると思うのは錯覚であると考えるのである。「アートマン」はサンスクリット語であり、パーリ語では「アッタンattan」がそれに対応する。日本語では「我」と訳される。このアッタンに否定の接頭辞anを付けてできたanattanを「非我」あるいは「無我」と言う。瞑想をして自分自身を観察してみれば、そこにあるのはたえず変化する五つの構成要素だけであり、それが不滅の「我」(アッタン)であるわけではない。
「我」であることが否定されるから「非我」と言う。「非我」の把握ができれば、「われには『われが、かつて存在した』という思いもないし、またわれには『われが未来に存在するであろう』という思いもない」という境地に至る。
P188
アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しい。ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。パフプッタの霊樹の地は楽しい。サーランダダ霊樹の地は楽しい。チャーパーラ霊樹の地は楽しい。
ブッダは、同様の言葉をその後にも繰り返している。この時点でブッダは死の三か月前であり、自分の死期を知っている。浬葉の境地に至り、80歳となって体力の衰えたブッダが、死の直前にこれほど「楽しい」と繰り返し語っているのは驚くべきことだ。
ブッダは、自分が存在している地の光景を楽しいと言い、その地に自生する植物や建築物を楽しいと言い、それらに囲まれて過ごすことを楽しいと言っている。「犀の角のようにただ独り歩め」と説いていたブッダの終着点がこのような愉楽の全肯定の境地として描写されたことに、私は深い感動を覚える。
P193
この文章のあとで、老・病・死についてまったく同じ内容が繰り返される。引用文にある「ああ、わたしたちに、生れるという性質がなければよいのに。わたしたちに、生れるということがやって来なければよいのに」をどう解釈するかであるが、「生れるという性質」について語っているのだから、これは死後にどこかの世界に生まれることの否定と、どこかの世界からこの世界に生まれてくることの否定の両方を含んでいると考えられる。
このうち後者は、古代ギリシア的な「誕生否定」そのものである。原始仏典においても「生まれてこないほうが良い」という考え方が考察の対象となっていたことが分かる。だが興味深いことに、この経典において、それは「生まれてこないほうが良かった」という詠嘆の形式としては結実しない。
私はすでに生まれてきているのだから、いまさら「生まれてこないほうが良かった」と願ったとしても、それはけっして起こり得ない。したがって、「生まれてこない」のを求めるのは、けっして起こり得ないことを求めるに等しいわけであり、そこには「求めても得られないという苦しみ」が生じてしまうと認識されるのである。このようにして、「生まれてこない」ことへの欲求は、私たちが生きるなかでプラグマティックに解決していくべき苦しみのひとつとして取り込まれる。ここにブッダの教えの大きな特徴を見ることができる。
すなわち、私はすでに生まれてきているのだから、いくら「生まれてこないこと」を望んだとしてもそれが得られるわけではない。それを得ようとすると苦しみに襲われるばかりである。だから、それを求めるのはやめにして、これからの人生のなかで、苦しみがなぜ起きるのかという原因の解明と、その原因を消滅させる道の解明を行なっていくほうがよいではないか、というような発想をするのである。