P27
iPadで行ういわゆる「オンライン診療」は口で言うほど便利なものではない。
はっきり言えば、iPad越しにただ会話をするのと、実際に診療をするのとは、まったく別の行為である。
診療という行為は、ただ言葉から情報を得ているわけではない。患者の顔色、微妙な動作、活力の有無や目線など、全体からそのキャラクターや重症度を拾い上げる。そこに身体診察をくわえることで、医師は患者の全身状態を掴むのである。
iPadでは身体診察ができないことは当然だが、相手の顔すらまともによく見えない。目線を合わせるということがもともと難しいし、年配の患者であれば画面の中に顔の半分も映っていないことや頭頂部しか見えていないこともあり、ちゃんと顔を映してくれと頼んでも応じられない患者は少なくない。あれこれと注文を繰り返しているうちに患者の側が怒り出すことさえある。
それでもなんとか会話できるならまだしも、来院時に看護師が渡しているはずのiPadに何度コールしても出てくれない高齢者もあり、その場合は防護服を着た看護師が、もう一度車まで足を運んで操作方法を教えなおすことになる。
P48
「圧倒的な情報不足、系統立った作戦の欠落、戦力の逐次投入に、果てのない消耗戦」
ゆっくりと指折り数えていく。
「かつてない敵の大部隊が目の前まで迫っているのに、抜本的な戦略改変もせず、孤立した最前線はすでに潰走寸前であるのに、中央は実行力のないスローガンを叫ぶばかりで具体案は何も出せない」
敷島は指先から顔を上げて、静かに告げた。
「国家が戦争に負けるときというのは、だいたいそういう状況だといいます。感染症の話ではなく、世界史の教科書の話ですけど」
静かであった。
P67
もとより信濃山病院はコロナ診療の拠点であるから、患者が集中することはやむを得ない。しかし、かつてない勢いで患者が急増しているにもかかわらず、周辺医療機関のほとんどは沈黙を保ったままだ。相変わらず多くの病院が、発熱があるというだけで診療を拒否し、かろうじてコロナ抗原検査を施行する病院も、陽性が出たとたん、CTも撮らずに信濃山に紹介してくる。
P119
ゆっくり反芻していく中で、ふいに敷島は背筋にぞっとするものを感じた。
濃厚接触者……。
にわかに視界が淡く色彩を失い、時が凍ったように止まる。
山村静江の濃厚接触者は、昨日駐車場で会った息子の山村富雄だ。熱心に介護していたことを思えば、ほぼ間違いなく陽性であろう。だとすると、コロナ陽性者と、敷島は不用意に会話を交わしていたことになる。
本来なら、防護服越しか、iPad越しで話すべき陽性者と、直接向かい合って話をしたということだ。
敷島は、霞む記憶の向こう側を大急ぎでさぐる。
あの駐車場で数分間の会話をしたとき、山村はマスクをしていたであろうか。
声をかけてきたときは煙草を吸っていた……。顎にはマスクがあったように見えた……。会話の途中で煙草を消し……、そのあとマスクは……?
記憶が定かではない。
敷島の額に小さな汗が浮かび上がった。
自分はマスクをしていた。しかしフェイスシールドは当然していない。相手がマスクをしていたかは明確ではない。距離はどれくらいで何分くらい話していたであろうか……。濃厚接触の定義のひとつは「十五分以上の会話」だが、それほど時間はたっていなかったはずだ……。
しかし、いずれにしても陽性患者と不用意に会話したことは事実である。
P121
濃厚接触の定義は、「マスクをせずに」「1メートル以内の距離で」「十五分以上会話すること」である。現時点では山村が陽性か陰性かも定かでない上に、たとえ山村が陽性と出ても、敷島は濃厚接触者にあたらない。
P131
そんな軽口を言いながら、これから二週間は車の中で寝泊まりすることを伝えた。
状況からは敷島が感染している可能性は限りなくゼロに近いが、ゼロと断言はできない。病院の判断は病院の判断として公的な指示に従えばよいが、ひとりの父親としての行動はまた別である。
根拠があろうとなかろうと、家族を守るためなら、敷島は何日でも車の中に泊まる覚悟だ。
P166
信濃山病院のような小さな病院がコロナ患者の大半を受け入れているのに対して、はるかに大規模な病院が事態を静観して我関せずという態度を維持している。民間病院の中には、かなりの感染症病床を確保したと宣言しながら、実際は、院内で発生した患者の治療に専念し、地域の患者は断っているような所もある。歪みはたくさんあるが、単純に善か悪かの問題ではない。そのような行動を誰が主導し、責任がどこにあり、どのような理念に基づいて動いているのか、現場にはまったく見えてこないのである。
行政とのつながりを考えれば保健所に権限があるのかもしれないが、臨床から遠く離れた保健所長の指示に、民間の大病院の院長が従うとは思えない。巨大な影響力を持つはずの大学病院は、意見を提示するどころか、内部の意思統一さえできていない。市は先に述べたごとく事態の深刻度さえ把握しておらず、だからといって一地方都市の感染爆発に対して県に期待できることはほとんどないだろう。