P60

 さらに、「市場の見えざる手」という経済学的な観念として1000年後に提示されるものの前兆が、すでにギルガメシュ叙事詩に見られることを示した。それは、野生の悪を手なずけ、人間の役に立つように使いこなすという形で表れている。これに関連して、見えざる手の萌芽が娼婦と聖人という両極端にあったことも指摘した。最後に、酒屋の女主人シドゥリの言葉として、ギリシャ流快楽主義が語られたことにも注目した。ただしギルガメシュは、快楽の誘いを拒絶している。快楽主義が経済的に支持されるのは、4500年後の功利主義を待たねばならない。

 P68

 先ほどのケインズの文章に付け加えるなら、標準的な世帯の家具は、4000年にわたってほとんど変化がなかった。つまり、キリスト生誕のはるか前に眠りについた人が17世紀になって目覚めたとしたら、日々の生活で使う道具や設備.類にさほど変化を認めなかっただろう。だが現代人は、ほんの一世代先つまり30年後に目覚めても、家庭にある設備の操作に大いにまごつくにちがいない。物質的な進歩が当然のこととされるようになったのは、科学技術革命の時代(それはまた経済学が独立した学問分野として誕生した時代でもあった)以降のことなのである。

 P93

 現代は、経済思想から倫理の視点が消えて久しい。その原因の多くはマンデヴィルの発想、すなわち「私悪は公益」が実行に移されていることにある(マンデヴィルについては第6章で取り上げる)。そのような経済システムにおいては、個人の倫理など無用である。というのも、のちに神秘的に市場の見えざる手と呼ばれるようになるものが、個人の悪徳を公共の利益に変えてくれるからだ。

 P98

 それなのに、なぜ善をなすのか。聖書に登場する人物の多くは、苦しむ運命を与えられているというのに。考えられる答は一つしかない。善それ自体のために善をなす、ということである。善をなすことの中に報いがある。この意味でなら、たとえ物質的な報いではないにせよ、善は報われる。しかし生産性や収支計算といった経済的次元では、倫理は考えられない。ヘブライ人に与えられた使命は、見返りがあるかないかを問わずに善をなすことである。善の支出が善の収入で報われるなら、それはボーナスであって、善をなす理由にはならない。善と報いは相関しないのである。
 この論法は、旧約聖書の中では独自の展開を示す。善の収人の方はすでに人間に与えられているのだから、過去になされた善の収入に感謝して、善の支出をしなければならないというのである。

 P113

 「あなたたちに対する刑罰は、寄留する者にも土地に生まれた者にも同様に適用される。わたしはあなたたちの神、主である」とある。移民にも、イスラエル人と同じように落ち穂を拾う権利があった。そしてイスラエルの人々は、自分たちもエジプトでは奴隷だったのだと、何度となく念を押される。だから、自分たちが最もみじめだったときのことを忘れてはならないし、客人にはもちろん、奴隷にも親切にしなければならない。「ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」。

 P120

 このエネルギーはたいへん役に立つと同時に、きわめて危険でもある。このエネルギーを時空間の連続体の中に置くと、どこに置いてもそこで何かが起きる。エネルギーとしての貨幣は三次元に移動可能だ。垂直方向(資本を持つ者が持たない者に貸す)、水平方向(水平的すなわち地理的な移動のスピードと自由度は、グローバリゼーションの副産物、いやむしろ推進力である)はもちろん、人間とは異なり時間輔に沿っても移動できる。貨幣のタイムトラベルが可能なのは、まさに利子があるからだ。

 債務が未来から現在にエネルギーを移転できるのに対し、貯蓄は過去から今日にエネルギーを移転することができる。金融政策と財政政策は、このエネルギーを管理・運用することにほかならない。

 P121

 GDPよりも数倍大きい債務が背後に存在する状況で、GDPの伸びを云々することに何の意味があるだろうか。富を得るために莫大な借金をしていたら、富を計測することに何の意味があるだろうか。

 P124

 経済的観点からすれば、7日目をもっと有効活用することは十分に可能だっただろう。しかし7日目は休まなければならないという命令には、人間は働くためにつくられたのではない、というメッセージが込められている。皮肉なことに、十戒のうち、おそらく今日最も守られていないのはこの戒律である。旧約聖書のこのメッセージは、ギルガメシュの主張と真っ向から対立する。

 P125

 7日目にはまだ未完成であちこち欠点があるとしても、完成させてはならないし、手直しをしてもいけない。7日目は、仕事の成果をゆっくりと味わう日なのだから。

 P126

 今日の経済学からは、この視点が抜け落ちている。経済活動には、達成して一休みできるような目標がない。今日では成長のための成長だけが存在し、国や企業が繁栄しても、休む理由にはならない。よりいっそうの高業績をめざすだけである。

 P127

 友人に久しぶりに会ったとき、「いま何してる?」というのは、挨拶代わりによく訊く質問である。ある友人はこの質問に対して、ほほえんで答えた。「何も。すべてやり終えたからね」。

 P203

 ユダヤ教はこの世のことはこの世で報われるべきだとしたが、キリスト教はもう一つの世界、すなわちあの世に正義を移転させた。

 これはエレガントな解決ではあるが、しかし代償を伴う。それも、現世での代償である。旧約聖書ではよい世界であり歴史の一コマであった現世が、新約聖書では脇役に退いた。正しい報いにまつわる古代の経済的矛盾にみごとな解決を与えはしたが、それは現世を犠牲にするという代償と引き換えだった。多くのキリスト教徒にとって、現世は不正で、おおむね悪である。

 P268

 マンデヴィルの社会哲学は、あきらかに利己心、利己主義の原理に依拠している。次章で取り上げるが、この見方にアダム・スミスが与していなかったことは、『道徳感情論』の冒頭を見ればあきらかだ。人間から悪徳を、具体的には利己心を取り除こうとするなら、繁栄は終わるとマンデヴィルは主張した。なぜなら悪徳こそが、財(贅沢な衣裳、食事、邸宅等々)あるいはサービス(警察、規則、弁護士等々)の有効需要を形成するからである。発達した社会は、こうしたニーズが経済的に満たされることによって成り立っているのだと、マンデヴィルは考えた。

 P279

 スミスが残したほんとうに重要な遺産は、社会を結びつけるのは共感であるという思想と、中立な観察者という概念の2つである。今日では、見えざる手によって経済社会がうまく運営されている、というようなことをスミスが言ったとされているが、実際には彼自身はこの言葉を3回しか使っていない。主著である2冊の著作で1回ずつ、そして『天文学』で1回である。したがって、なぜ見えざる手がこれほどの熱狂を巻き起こしたのか、まったく解せない。

 P283

 このように、誤ってスミスのものとされている思想を当人はきっぱりと否定している。初期の経済学を取り上げて、国の富は利己主義と自己利益の追求によって形成されるというテーマを論じることになったら、ただちに大半の人が、それを言い出したのはアダム・スミスだと言うことだろう。しかし、それは短絡に過ぎる。スミスはマンデヴィルの学説に通じてはいたけれども、『国富論』では一度も引用していない。引用したのは『道徳感情論』においてのみで、しかもそこでは繰り返し「危険で放縦な」マンデヴィルを批判し、すべてを利己主義で説明しようとする論法に反論している。スミスがこのように直接何度も批判し、軽蔑し、那楡した相手は、マンデヴィルしかいない。ときには回書全体が、マンデヴィルに反駁するために書かれたのではないかと感じるほどである。こうしたわけだから、スミスがマンデヴィルの後継者を自任するなど、あるはずもない。しかし世間の通説ではそうなっている。

 つまり暗黙のうちに悪徳を徳と再定義することで、軽蔑や批判に直面することなく、マンデヴィルの主張した論理を巧みに利用したと言える。スミスによって、マンデヴィルの軽蔑すべき「利己心」はうるわしい「自己利益」に変えられた。そして自己利益は、『国富論』にも『道徳感情論』にも出てくる。

 P290

 スミスの考える社会倫理は、相互の共感の上に成り立っている。人間は社会的な生き物であり、その本性は感情移入を必要とし、共同体の一部であることを欲する。社会において、倫理が重要な役割を果たすのはこのためだ。「徳は社会を支え、悪徳は社会を乱す」。こうしてみると、スミスとマンデヴィルはこれ以上ないほど対極的な立場にあると言える。なにしろマンデヴィルは、悪徳が社会の繁栄の根源であり、社会の徳が高まれば(スミスはそれを望んだ)貧乏になって崩壊すると主張したのだから。一方スミスは、「社会の歯車のいわば潤滑油である徳は必然的に快感をもたらし、……悪徳は歯車を軋らせ摩耗させるいやな錆のように、必然的に不快感を起こさせる。……徳がそれとして好ましく、悪徳がそれとして嫌悪の対象であるなら、両者を最初に識別するのは理性ではあり得ず、直接的な感情や感覚でなければならない」と考えた。

 P294

 ここで述べられている行動の動機もまた、長らくアダム・スミスの主張とされてきたものだ。すなわち、人間は自分自身のことを考えるだけでなく、他人や社会に対する強い感情に縛られる、ということである。ヒュームが、人間を社会的な徳に導くのは合理的な計算ではなく、感情だと指摘した点に注意されたい。ヒュームの考えでは、こうした社会的徳は、社会契約論者が主張するように合理的に正当化できるものではなかった。

 P296

 両者は同じ土壌にあって競い合うものではない。人間の行動は感覚や感情や情念に導かれ、理性は正当化の過程で補佐的な役割を果たすにすぎないのである。ジョン・ロックも同様の主張をしている。「理性は、この自然の法を確立し宣言するというよりは、探求し発見したと言うべきだろう……理性はこの法の創造者というよりは解釈者にすぎない」。
 人間は、利便性や効用や費用を注意深く計算した結果として行動するのではない。自分では理解できない力や感情によって動機づけられるのである。ケインズのアニマルスピリットにも、こうした不合理な性質が認められる。

 P297

 カントも同様の見解を示し、「純粋理性は、いかなる目的も先験的に命じることはできない」と述べた。理性が果たす役割は、目的までの最善の方法を見つけるといった補佐的なものにとどまる。つまり人間が行動するときには、理性と感情が協力しているのである。これについては本書の第2部であらためて取り上げることにしたい。ともあれ、矛盾を生み出すのは理性だけである。ヒュームの言うとおり、「自分の指を一本欠くことより全世界の破壊を選んだとしても、理性に反しない」のだから。