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 「なぜ謝る?ていうか泣くな大ちゃん」

 また目頭が涙で一杯になっていた。実は僕は病前から、仕事においても家事においても「工夫しても効率化できない単純作業」というものが極端に苦手だった。要するに工美は大好きだけど面倒くさがウで、家事でもそうした面倒なことは後回しにしてきた。対するお妻様は、注意散漫だし作業に対する自発性は低いが、一度単純作業に入るととんでもない長時間それを続けられるタイプだった。

 反省することばかりだ。お妻様に申し訳ない気持ちと、ありがたい気持ちが胸の中に膨れ上がっていく。僕は、面倒な家事はいい加減に放棄しつつ、自分の得意な家事だけやって、家事ができるつもりになっていたのではないか。そのくせ、自発的に家事をやろうとしない、そして手際=作業の効率化が得意ではないお妻様に「それじゃやったうちに入らない」「そんなにゆっくりやってたらいつになったら終わるかわからない」「俺がやったほうが早い」と言い放って、家事を奪ってきたのだ。

 お妻様が単純作業に強く、僕はそれが苦手。僕が作業の効率化に強く、お妻様はそれが苦手。そんなことは、お妻様とつきあい始めた頃に十分にわかっていたはずなのに、僕はそんなお妻様をずっとずっと、きちんと見てこなかった。「わたしは駄目な子要らない子〜♪」と妙な節で歌いながら会社のPCに向かって黙々と単純作業をこなしていた、まだ19歳の少女だったお妻様のことを思い出した。お妻様を「社内で最も単純作業と集中力に優れた部下」と認識していた時代のことを思い出した。

 そもそも、こうしてふたりで並んで一緒になにかの作業をしたことなんて、いつぶりなんだろう。
 「お妻様ありがとう。ごめんね」
 それ以上なにか声を出せば、そのまま滂沱の涙が溢れそうで、押し黙って手を動かし続けた。

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 こうして僕自身が苦手なことを洗い出していく過程で気づいたのは、実は僕は「合理主義の面倒くさがり屋」なのだということだ。洗濯にせよ食器洗いにせよ、僕は手順を合理化しながら作業を進めていくのは好きだが、小さなものを片づけるといった合理化し辛い作業はとことん嫌い。

 その結果僕は「洗い終わった食器が置いてあるところから次に使う食器を取っても良いじゃん派」「その洗い終わった物が目に見えないところにあれば片づいていると見なす派」で、だからこそ収納スペースの中など目に見えない部分はめちゃくちゃ雑然としている。だが、この僕が面倒だ面倒だとストレスを溜めながらやっていた丁寧な片づけ作業が、お妻様には全くもって苦痛ではないという。そういえばお妻様の物の置き場もない化粧台。引き出しを開けて見れば、中は化粧瓶が用途・サイズ別にきちっと並べてある。「とりあえず突っ込んどけ」な僕の文机とはえらい違いだ。やっぱりやるじゃないか、お妻様。

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 依頼が途絶えてその場を離れるときも「手伝うことないなら○○してきていい〜?」とわざわざ聞いてくるようになった。指示を待っているときのお妻様に犬の尻尾がついていたら、多分ちぎれんばかりに振られているように思えた。

 子どもの頃からなにをやっても駄目な子とレヅテルを貼られ続け、家族からも、そして僕からも、やろうとする作業を奪われ、やった作業を否定され続けて、ついには「なにもやるもんかバーカ」なモードに入ってしまっていたお妻様。そんな彼女にとって、僕との共同家事は、初めての肯定体験だったのかもしれない。お妻様が家事やってて楽しそうだなんて、
そんな姿を見る日が来るとは思わなかった。

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 ど真ん中にあるのに?見えないの?お妻様は真顔だ。冗談でも嫌がらせでもない。お妻様は本気で全部の食器を片づけたつもりで僕をチェックのために呼んで、それでもなおかつ片づけ忘れた茶碗の存在に気づかないのだ。

 だが待てよ?あれ?これは脳梗塞発症直後の僕に頻発していた症状だ。

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 なぜふたつ頼まれたことのひとつしかできないのか。なぜメモ通りの買い物ができないのか。回復していく高次脳機能障害者として、障害がきつかった時期の自分とお妻様のできないことを重ねて考えるうちに、次々とお妻様の「なぜできないのか」が見えてきた。

 「ようやくあたしの気持ちがわかったか」
 お妻様の言葉が、本当にようやく、徐々に強いリアリティを持って、僕の中に沁み渡ってきた。

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 それは、じっと見続けていると意味のある絵柄が見えてくる「隠し絵」「騙し絵」を彷彿させる感覚だった。物を探そうとして必死に集中して机などを見てもお目当ての物は見つからないのに、逆にちょっと脇に目を逸らしたり、逸らした目を元見ていた場所に戻した瞬間などに、探し続けたはずのその場所に、なかったはずの探し物が忽然と視界に現れるのだ。

 あまりにふっと現れるものだから思わずドキッとするほどだが、一度気づいてしまえば、その物はそこにあり続ける。まさに隠し絵の感覚だが、この「必死に見ても見つからない物が、ふっと現れる」という実体験を一日に何度も繰り返したことは、根元的な理解を僕に与えてくれた。

 人は視野に入る物すべてが見えているわけではなく、そこに物があると認識して初めて「見えている」なのだということが、身をもって理解できた。その感覚を当てはめると、改めて出会った頃からのお妻様の困った行動にも説明がつく。例えばなぜお妻様は、何度注意しても中身の入った飲み物のコップやハサミなどの刃物を、床の上に置きっぱなしにしてしまうのか。そしてなぜ彼女は、物が置いてある上に平気で座ってしまうのか。物の上に物を重ねて置いて、下の物が見つからなくて大騒ぎするのか。

 あれは、その物が「視界に入っているけれども認識されていない」からなのだ。僕が「お妻様、お尻の下になにかない?」「床に置いたら駄目なもんが置いてない?」と僕が指摘した時点で、その物がお妻様の視界に「ふっと現れている」のだ。

 同様に推論を膨らませると、僕の抱えた注意障害のもうひとつの症状である「凝視」もまたお妻様の抱えた問題だと気づいた。注意障害と言えば通常は「不注意」を想像するだろうが、一度視野に入った物や人の顔などをジッと見続けてしまい、自力でその注意を引きはがせずに本来やるべきことができなくなってしまうという症状も注意障害のひとつだ。脳梗塞直後の僕の場合は、通りすがりの人と目が合うと、そこで注意がロックしてしまい、相手が視界から消えるまで相手の目を凝視し続けてしまうという症状が残った。本来注意すべきは歩行する前方なのに、すべきでない物に注意がロックして自力では解除できないという経験はショッキングで不気味で、「不審者になってしまった」と辛い思いをしたものだが、これもお妻様の日常生活の行動に置き換えられる。