P19

 朝10時すぎにスタートした督促電話は、1時間の昼休みをはさんで、夜7時すぎまで続いた。一日中、督促の電話をしていると、業務に慣れるのは意外と早く、夕方になると、周りの電話に耳を傾ける余裕も出てきた。
 ふと隣の竹原さんを見ると、電話相手とやりとりしながら、受話器を持つ手と唇がブルブルと震えている。朝から晩まで機械のように電話がけをしているが、ベテランの竹原さんでさえ相手とのやりとりの中で抑えられない感情が湧き出ることもあるのだ。そんな竹原さんになんとなく人間味を感じるのだった。

P22

 居酒屋での歓迎会が終わったかと思うと、「二次会行くよ〜!」と竹原さんが音頭を取って、男8名がぞろぞろとカラオケボックスへ移動。
 竹原さんが横浜銀蝿の「ツッパリハイスクールロックンロール」をリクエストして熱唱し始めると、みんなが立ち上がり、竹原さんを囲んでツイストを踊り出す。「ほらっ、加原井さんも!」と石松さんに促され、私も見よう見真似でツイストを踊る。
 「みんな乗ってきたねえ〜!」と竹原さんが絶叫し、「もういっちょう!」と再び「ツッパリハイスクールロックンロール」をリクエスト。絶唱する竹原さんを取り囲んだ男7人がゼイゼイと息を切らせながら狂ったようにツイストを踊る。
 たかだか数時間の飲み会で「サラリーマン社会の縮図」を見せられ、私も無事にその一員に加わった気がした。

P78

 毎日が、延滞客の管理と督促。こうした日々をすごしているとふと思うことがある。
 「この債務者たちは、永遠に借りては返してを繰り返す人生を送っていくのだろうか?そして、私も来年の今ごろも、再来年、5年後、10年後も、今日と同じことをしているのだろうか?」
 そんな気の迷いはすぐに日常の業務の中にかき消されていく。
 朝8時半、出社するとすぐにパソコンの端末を叩き、長期延滞者をリストアップする。本日、私が架電するのは2ヵ月オーバーの延滞者リストだ。このクラスになると5件に1件電話に出ればよいほうだ。ダメ元でスピーカーにして架電する。

P124

 私が直接やりとりした債務者の自殺を知ったのはこのときが初めてだった。もちろん知らぬ間に自殺していることもあるだろうし、やりとりしていても印象に残らなければ自殺したこと自体に気づかない。だが、このときは伊東さんとのやりとりの記憶がよみがえり、頭の中で伊東さんの声がやけに生々しく再現された。生真面目そうに声を詰まらせながら、「必ず返します」と約束してくれたあの声が。

P150

 「大事なローンの審査に関わるものなので、なにとぞよろしくお願いします」
 私が丁重に現金1万円の入った封筒を差し出すと、医師は眉毛をぴくっと動かしてすんなり受け取った。
 これはダメだったかもしれないなあ。会計を待っているあいだ、佐々岡さん親子と私は無言でいたたまれない時間をすごす。
 十数分後、会計時に事務員が差し出してくれた診断書には「問題なし」との所見。付け届けの効果なのか、予期せぬ合格通知を受け取った受験生のように喜びが湧いてきたが、心のどこかにはこんなテストで大丈夫なのかという心配もうずく。

P176

 続々と退職していく同僚たちの多くは異業種に転職していった。だが、私は同業のS社を選択した。S社は100名ほどの社員を抱える消費者金融業者で、T県を中心に複数の店舗を運営していた。
 この業界から足を洗おうという迷いがなかったわけではない。ただ、競合他社が淘汰されていき、激しかった生存競争が一段落し、景気も回復すれば、この業界はまた持ち直すのではないかという淡い期待もあった。
 長年、多重債務者と向かい合ってきた経験から、欲しいものややりたいことがあれば、借金してでもなんとかする人がいることを実感した。時代が変わっても、そういう人たちは存在し続ける。消費者金融のニーズは絶対なくならない。私はそう信じていたのだ。

P180

 業界が衰退していく中、追い討ちをかける出来事が起こる。
 2010年6月18日の改正貸金業法の完全施行だ。過剰貸付による多重債務者の増加が社会問題となり、行政も対応を迫られたのだ。変わった点は4つだ。
 1つ目は貸付金利である。それまで利息制限法における18%という上限金利に対して、消費者金融は出資法の上限金利(費付金額により異なるが、50万円の貸付なら年利29.2%)で貸し付けていた。このあいだの乖離を「グレーゾーン」と呼ぶ。この「グレーゾーン金利」が完全に撤廃された。つまり、利息制限法における18%(貸付50万円の場合)しか適用できなくなった。
 2つ目が、取り立て行為の規制だ。規制白体は年を追うごとに厳しくなってはいたし、S社では相当厳しく規制されていた。それでも私の感覚では多少、威圧的な督促は行なわれていた。業者の立場から言えば、「そうしなければ払ってくれないのだから仕方ない」。だが、「人の私生活若しくは業務の平穏を害するような言動をしてはならない」とされ、その具体例が法律で明記されるとともに罰則が引き上げられた。
 3つ目が、契約時の団体信用生命保険加入の禁止である。以前は契約時、同時に生命保険にも加入してもらい、契約者が亡くなれば、保険会社からの保険金で債務が返済される仕組みになっていた。第2章で述べた伊東さんのケースがそうだ。これが自殺を助長させると社会問題になり、禁止された。
 4つ目が、総量規制だ。本人の年収の3分の1を超える貸付が禁止された。
 1〜4までどれも打撃になったが、なかでも4つ目の総量規制が、中小の消費者金融業者には大打撃となった。

P189

 「今日も弁護士から、早くしろって催促の電話がありましたよ。弁護士って高圧的な人、多いですよね」
 「弁護士といったってピンキリなんだよ。うちに電話してくるのなんて、『サラ金弁護士』っていう債務整理専門だからね。弁護士の中でもハンパもんなんだよ」
 真偽のほどは不明ながら、業界30年のベテランの言葉にはそれなりに説得力がある。
 「八重樫さん、うちも過払い金の処理が落ち着いたら持ち直しますかね?」
 「無理、無理。この業界に未来はないって。オワコンってやつだ。銀行でやらかして消費者金融に来るやつはたまにいるけど、逆ルートはないし、お互い、早いところこの業界から足洗って、再就職先探したほうがいいよ」

P200

 こうして生活再建を目指して新しい暮らしが始まってすぐ不測の事態が起こる。妻の入院だ。
 先の見えない生活の中、パートで生活を支えてくれていた妻は突然、精神的なパニックを起こし、病院に緊急入院することになる。
 生活の困窮から保険など真っ先に解約してしまっており、妻の入院費用の支払いがそのままのしかかってくる。当然ながら、もうどこからも借りることはできない。月8万円の住宅ローンの返済は早々に行き詰まった。ふつうに暮らしていくことがこんなにも難しいのか。私はそのことを痛感した。
 そして、もうひとつ気づいたことがある。それまで「私が妻を養っている。私がいなければ、妻は何もできない」と思い込んでいたが、それは大間違いだった。
 妻が家からいなくなって以降、私には気力が湧いてこないのだ。一緒に暮らしているときは些細なことで口論して、ギスギスした時間をすごすこともあったのに、いざ妻がいなくなると途端に生活が無味乾燥なものになった。妻がいなければ、何もできないのは私のほうだった。皮肉にも、苦難というものが、そんな気づきを与えてくれることもある。
 アルバイトが終わると、私は病院に通った。
 今でも強烈に記憶に残っている出来事がある。薬の副作用なのか、背中を丸めたおかしな歩き方で表情を失った妻が面会室に入ってくる。彼女がもう二度と元の姿に戻らないような気がして、私は妻の前で絶望の涙を流した。味わったことのない人生最大の絶望だった。

P202

 家や財産を失ったとき、人は尊厳や自信も同時に失う。自分がやってきたことが無意味に思え、白分が築いてきたものに価値がなかった気がする。だから、死んでしまったほうが楽だと思ってしまうのだ。そんなとき、私の心に届いたのは、自己破産を経験した親方の言葉だった。

P204

 2023年の夏、義母から実家に呼び出しがかかり、妻と2人で出かけた。迷惑をかけた義母には個人再生のことや住宅を手離したことも報告済みだったが、会うのは5年ぶりだった。
「生活は落ち着いた?家まで売っちゃってアパート暮らしもいいけど、子どもたちが可哀想だよね。ここに少ないけど700万円人ってるから、これで中古住宅でも買いなさい」
 そう言うと義母は貯金通帳を私たちに差し出す。
 「これはあんたらのためじゃないからね。娘と息子が帰ってくる実家もないんじゃ可哀想だから。ただ、あげるんじゃないわよ。2万でも3万でも毎月返せる金額を夫婦で相談して決めなさい。まあ、毎月3万返してもらったって、10年で360万でしょ。私、絶対生きてらんないわね」
 冗談にも嫌味にも取れることを言って笑った。
 義母のありがたい申し出を受け、私たちは築30年の中古住宅を購入した。2024年5月末に転居する予定だ。
 35年ローンで手に入れた新築住宅よりも、今回購入した中古のポロ家のほうが何十倍も感激が大きい。“新居”への引っ越しが今から楽しみでならない。