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 小高い丘の上にある桜ヶ丘キャンパスに到着したのは15時を過ぎた頃で、構内には誰もいなかった。タバコを持つ手が震えた。遠くから、白い紙に黒い字で書かれた番号の羅列が見える。俺はこんな数字のために19、20歳を棒に振ったのだ。
 近づくと、自分の受験番号はあった。涙は出なかった。
 嬉しい気持ちの代わりに「やっと終わる」安堵が押し寄せた。自宅に電話をし「あったよ」と告げた。母は泣いていた。

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 それから始まった解剖実習はとても厳しく、憶える量も凄まじかった。全身の臓器、骨、筋肉、神経の名前を日本語、英語、ラテン語で暗記していく。教授による試験も厳しく、数人は落第した。

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 実習は、内科・外科がそれぞれ4週間ずつと長く、それ以外の科はだいたい2週間ずつになっている。慣れぬ白衣を着、聴診器をボケットに入れて、班のメンバー四人で指定された集合場所に行く。朝早いところでは7時集合という科もあったが、だいたい9時くらいであった。

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 加えて8月の大会まで続けた週5日のサッカー部練習も災いし、卒業試験はかなり厳しい戦いだった。とんでもない量の暗記のため、直前まで一日18時間の勉強を毎日続けた。上位グループに教えを請うことも多々。 窓の外を見る余裕はなかった。

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 合格率は毎年30%と知り、僕は衝撃を受けた。高すぎる、ではなく、低い、と感じたのである。全国の医学生が毎日勉強し、それでも1万人中1000人ほどが不合格となるのだ。さらには、一度不合格だった学生はまた次の年に受験できるのだが、その合格率は50%まで落ち込むということだった。つまりこれは、一度たりとも落ちてはいけない試験だ。

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 1000を超える病気。それらの原因や症状、治療法を、自作のゴロで頭に叩き込んだ。暗記は苦手だったが、そんなことは言っていられない。

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 試験には、「こういう治療を選んだら患者さんが死ぬ」というような、絶対に選んではいけない選択肢がひそんでいる。これは「禁忌肢」と呼ばれ、禁忌肢を三つ以上選んでしまうと、他の点数がどれだけ良くても必ず不合格になるシステムだった。

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 息が止まれば10分で人間は死ぬ。おしつこが出なければ3日で人間は死ぬ。水を一滴も飲めなければ、1週間はもたないだろう。調子が悪いと思って病院に行ったら3ヶ月で死ぬと言われ、実際そうなる人がいる。そんな不安定な存在、これが人間だ。

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 ある年の大晦日、一人暮らしをしていた築45年のボロマンションに僕はいた。汚い畳に横たわりテレビを見ていると、NHKのニュースで、
 「福島第一原発に近い個人病院・高野病院の院長が火事で亡くなった」
 と流れた。年の瀬に大変なことがあるもんだ、と思った。

 帰りの新幹線で、僕は同期の友人たちと泣きながらめちゃくちゃにビールを飲んだ。
 その翌日のこと。医者の友人から連絡が来た。
 「高野病院が存続の危機だ」
 聞くと、院長亡きあとボランティア医師たちが一日交代で入院患者100余名を診ているという。地域には帰還した住民が3000人、原発作業員が3000人住んでおり、潰すわけにはいかないのだと。しかし、病院は法律で常勤医師が一名いなければ存続できない。
 僕は頭が沸騰した。
 僕が高野病院に行く。Dの顔がちらついた。
 「俺はもう死んだけど、なあ中山、お前はどう生きるんだ」
 そう言われた気がした。
 その夜高野病院に連絡をし、3日後には福島に行った。亡くなった院長の娘の理事長に「ぜひ来てくれ」と言われた。当時同棲していた恋人に行こうと思うと告げると、心配だと泣かれ心が揺れた。
 翌口仕事から帰ると、
 「行ってきて。私はあなたを誇りに思う」
 と泣きはらした目で言ってくれた。引っ越しも間に合わず、2週間後にトランク一つで福島入りした。
 2ヶ月の臨時院長は、想像を超えて苦しい生活だった。幸い次の院長が見つかり、僕は福島県内の別の病院へと異動した。その時の恋人は今の妻である。