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 夫は、間断なく襲う体調不良と闘いながら、過酷なテレビ制作の現場に立ち続けた。私の人生で、彼ほど自分に厳しく、孤独で繊細で、底なしの優しさをあわせ持つ人はいなかった。12年にわたる透析、腎臓移植をして透析の鎖から解き放たれた9年、そして再び透析に戻った1年余――。病との闘いのような人生だった。

 私たちは確かに必死に生きた。しかし、どう死ねばよいのか、それが分からなかった。夫の全身状態が悪化し、命綱であった透析を維持することができなくなり始めたとき、どう対処すればいいのか途方に暮れた。医師に問うても、答えは返ってこない。私たちには、どんな苦痛を伴おうとも、たとえ本人の意識がなくなろうとも、とことん透析をまわし続ける道しか示されなかった。そして60歳と3ヵ月、人生最後の数日に人生最大の苦しみを味わうことになった。それは、本当に避けられぬ苦痛だったか、今も少なからぬ疑問を抱いている。

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 現在・日本では約35万人が透析を受けている。人口比では台湾、韓国に次いで世界3位、まぎれもない透析大国である。

 透析医療は、入り口は間口が広い。透析を始めることを決断しさえすれば、そこからは透析に必要なシャント手術を経て透析導入へと、動く歩道で運ばれるがごとく進んでいく。都市部には電車が停まる駅ごとに透析クリニック(維持透析施設)があり、どこでも歓迎してくれる。日本の透析医療の水準は高く、清潔で安全に治療を受けることができる。患者には手厚い医療制度が用意され、福祉制度の面でも優遇されている。
 透析の医療費の総額は年間約1兆6000億円、日本の全医療費の約4%を占める。つまり透析という巨大な医療ビジネス市場が形成されている。医療機器メーカー、製薬会社、そして透析施設に融資を行う銀行にまで莫大な利益をもたらし、「透析患者が10人いれば、数年でビルが建つ」とも椰楡されてきた。

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 透析の中止によって引き起こされる症状は、尿毒症をはじめ多岐にわたる。体内の水分を除去できないことによってもたらされる苦痛は、「溺れるような苦しみ」とも言われ、筆舌に尽くしがたい。突然死でない限り、透析患者の死は酷い苦しみを伴う。当然、緩和ケアの必要性が問われるところだ。

 透析大国と呼ばれるこの国で、声なき透析患者たちが苦しみに満ちた最期を迎え、家族が悲嘆にくれている。多くの関係者がその現実を知りながら、透析患者の死をタブー視し、長く沈黙に堕してきた。
 なぜ、膨大に存在するはずの透析患者の終末期のデータが、死の臨床に生かされていないのか。なぜ、矛盾だらけの医療制度を誰も変えようとしないのか。医療とは、いったい誰のためのものなのか。

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 2022年、米国腎臓データシステムが発表した年次データレポート(United States Renal Data System「2021 Annual Data Report」)によると、日本の腹膜透析PDの患者数は透析患者全体の2.9%。片や日本と並んで「透析大国」といわれる香港は69%で、7割に迫る。欧州やカナダが20〜30%、ニュージーランドが30%、先進国の中では低めのアメリカも10%を超えていて、日本では腹膜透析が極端に少ないことが分かる。

 ふりかえれば、私たち夫婦は長く透析医療と向き合ってきたが、腹膜透析PDについて医療者から説明を受けたことは一度もない。今回の取材で出会った血液透析患者12人(都内で10年以上の透析歴有り)に尋ねてみたが、全員が透析導入時にPDの選択肢を示されていなかった。福生病院のケースでも、原告は「もし腹膜透析の説明も受けていれば、透析中止ではなく、腹膜透析を選択した可能性がある」と主張していた。この「血液透析」一択の状態が問題視され、2020年の診療報酬改定では、腎代替療法に関する説明・情報提供に指導管理料が新設されるというインセンティブがつけられたところだ。

 前述したPDのデメリット、つまり医療的な原因がその普及を阻んできた。加えて、日本特有の社会的な原因も無視できない。日本透析医学会によれば、国内の血液透析の最大収容能力は47万8954人。実際の慢性透析患者数は34万7671人。つまり国内すべての患者が血液透析を選んだとしても、ベッドは73%しか埋まらない状態にある。
 「透析でビルが建つ」といわれた時代、ことにバブル期前後から、金融機関は「必ず成功するビジネスモデル」を示して医療関係者に積極的な融資を行い、国内の血液透析の設備は増え続けてきた。結果としての供給過剰は、血液透析のベッドを埋めるという「動機」を働かせやすい環境を作ったと見ることもできる。
 腹膜透析PD外来を構える大学病院や地域の基幹病院など一定の規模を持つ病院を除いて、透析医を名乗っていても、血液透析の現場でしか働いた経験がなく、腹膜透析PDは説明できない、という医師も少なくない。腹膜透析を選択肢として提示しなければ患者も増えない、という循環が続いている。

 東北医科薬科大学病院では、血液透析の患者が平均10〜20人、かたや腹膜透析PDの患者は110人以上、年間導入数は50人を超える。社会一般の血液透析と腹膜透析の比率が、ここでは完全に逆転している。

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 この出口部に、患者の状態に適した濃度の透析液バッグをつなげて、腹腔内へと注入する。見た目には、点滴を腕ではなく、お腹につなげる感じだ。透析液を腹腔に溜めておくと、血液中に含まれる老廃物や水分が、腹膜を介して沁み出してくる。それを身体の外に排液することで、老廃物が取り除かれる仕組みだ。

 腹膜透析PDは毎日行うため、2〜3日おきに行う血液透析に比べて、腎臓の働きに近い。そのため血管など身体への作用が穏やかだ。透析液の入ったバッグと、それを吊り下げるスペースさえあれば、自宅だけでなく職場や学校、旅先、どこでも透析を行うことができるので自由度が高い。

 その腹膜透析にも、2つの方法がある。基本的な療法は1回約30分の透析液の注液と排液を、日に3〜4回、繰り返して行うもの(連続携行式腹膜透析11CAPD)。

 もうひとつが、棚に置けるほどの小型の透析器(腹膜灌流装置)を使って、主に夜、寝ている8時間ほどの間に自動的に透析を行うシステム(自動腹膜透析11APD)だ。就寝中に注排液の作業を行えば、日中はほぼ透析導入前に近い生活を送ることができる。

 国内の腹膜透析PDの患者の約2割が、透析不足を補うために、月に数度、クリニックなどで血液透析を併用している(このハイブリッド方式が、終末期でない患者にも治療効果が高いことが最近知られるようになってきている)。

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 中野医師によれば、透析医療を普通に学んできた医師であるならば、「PDファースト・PDラスト」という言葉を知っていて当然だという。つまり、透析を導入するにあたって理想的なかたちは、腎機能が残っている段階から腹膜透析PDを徐々に導入して透析を始め(PDファースト)、腎機能が無くなる段階で血液透析に移行し、終末期には再び腹膜透析PDに戻る(PDラスト)というものだ。

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 もし私たちがあのとき柴垣医院を選んで、ドクターから腹膜透析をすすめられていたら、どう判断しただろう。感染症が怖いと拒否したか、移植手術の可能性があるからと延期したか、それとも血液透析から在宅腹膜透析へと療法の変更を決断していたか、そもそも適応はなかったか。

 今さら想像しても詮無いことだけど、少なくとも医療者から「選択肢」を与えられていたことだけは間違いなさそうだ。