末期がん「おひとりさま」でも大丈夫
長田 昭二


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 いま思うと自暴白棄になっていたのだ。
 2016年8月。猛暑の日曜の午後、炎犬下の皇居周回路を15キロ走って帰ってきて、トイレに入った僕は、「真っ赤な尿」を見て仰天した。
 普段自分の尿の色をじっくり観察することはないが、大体は無色透明か、多少色が付いていたとしても、黄色というか淡いレモン色といった感じだろう。ところがその時見た尿は、「濃い紅茶」のような、尿の色としては初めて見るものだったのだ。
 「これが世に言う血尿か……」
 急に恐怖を感じた僕は、自宅近くの内科医院を受診し、血液検査を受けた。結果としてこのときの「真っ赤な尿」は、炎天下で走ったことに伴う脱水症によるもので血尿ではなかったのだが、一つ気になる所見が得られた。前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSAの数値が3.5倍と、正常値の中では極めて高い値だったのだ。

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 血尿は「見た目」で大きく二種類に分けられる。尿の最初から最後までを通して同じ色合いの尿が出るタイプと、最初は赤味の濃い色だが次第に色が薄くなっていくタイプ。前者は膀胱内ですでに尿が血液と混じり合っているので色合いが一定になる。出血部位は腎臓か、腎臓から膀胱までをつなぐ尿管、そして膀胱が疑われる。一方後者は、膀胱から先の尿道(途中の通り道である前立腺を含む)のどこかで出血しているので、尿の出だしが特に赤いという特徴がある。
 僕の血尿は後者だった。これで前立腺がんの可能性が一層高まったことになる。

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 生検とは、がんが疑われる臓器の組織を採取し、顕微鏡で観察してがんの有無や性質などの診断につなげる検査のこと。前立腺の生検は、肛門から器具を挿入し、直腸越しに前立腺に針を刺して組織を採取する方法が一般的だ。局所麻酔をするとはいえ、ボールベンの芯ほどもある太さの針を十数本も刺す検査の身体的負担は小さくない。
 それでも、刺した針ががん紺織を捉えればいいが、もし外れると、たとえがんがあっても「がん」の診断を下すことができない。結果として治療開始が遅れるリスクがあるのだ。
 そこで当時、一部の医療機関で導入が進んでいた「核磁気共鳴画像−経会陰的超音波画像融合画像ガイド下前立腺生検」という技術が選択肢として浮上する。「核磁気共鳴画像」とは「MRI画像」のこと。あらかじめMRIで撮った画像をコンピュータ処理して3D画像としてモニターに映し出し、医師はそれを見ながら、がんが疑われる部位を狙って針を刺す検査法だ。従来の生検は、「とりあえず前立腺に何本もの針を刺して組織を採取する」という、言葉は乱暴だが「数撃ちゃ当たる方式」だったが、新しい検査法は、がんの存在が疑われる部位を目指して生検針を刺すので「ハズレ」のリスクを大幅に下げられる。ターゲットを特定して生検針を刺すことから「夕ーゲット生検」とも呼ばれる生検法だ。

 P80

 仕事はどうするか。長く続けている新聞の連載は、頑張れば「書き溜め」ができるので、病気の進行を見ながら少しずつ前倒しで進めておけば、編集部にかける迷惑は最小限にできるだろう。すでに書籍化の計画が進んでいる案件については何としても実現したい。しかし、それ以外の単発の仕事についてはセーブせざるを得ないだろう。とはいえすべてを断ってしまうと生活費と医療費が困窮するので、手間とストレスがかからないものについては受けよう。早い話が、よく知った間柄の編集者、もっと言えば「好きな編集者」との付き合いに隈定しよう――という方針を立てた。

 P108

 僕の年間平均売上高は大体八百万円台。これは年によって大きく変動し、限りなく一千万円に近づく年もあれば、六百万円台で終わる年もある。一千万円を超えると消費税がかかってくるので年末が近づくと気配を感じて注意するようになるのだが、出版不況の煽りは我々ライターの生活を直撃しており、近年はそうした不安を持つこともなくなっている。
 しかもこの「平均八百万円台」という金額はあくまで「売上げ」であって「収入」ではない。売上げから事務所(自宅の一室)の家賃、交通費、通信費、交際費などを差し引くと、本当に「ちょぴっと」しか残らない。これが僕の「収入」なのだ。
 このちょぴっとの収入から住居部分の家賃を出し、食費を出し、時々洋服を買ったり、舟券を買ったりするのだ。もちろん医療費もここから支払う。だから余裕なんてないに等しい。

 P113

 読者の皆さんが気をつけるべきは、この「先進医療」の枠組みにすら入らない「自由診療」だ。血液から免疫細胞を抜き出して活性化させて体に戻すとか、患者専用のワクチンを作ってがんを叩くなどという”自称医療”のことをいう。保険適用とならず、医療費は病院や医師の裁量に委ねられているため、数百万という法外な金額を払わされることも珍しくない。がんにかかった著名人が高額な自由診療に手を出し、メディアで話題になることも増えてきた。
 こうした”自称医療”には科学的なエビデンスがなく、がん治療には全く効果を発揮しない。そうしたことは、当の本人(悪徳医師)たちが一番よく分かっている。
 患者の命を救いたい――という高い理想を掲げて医学部に入ったはずなのに、どこかで患者を騙して簡単にカネを儲けられる仕組みを知ってしまい、悪魔に魂を売った悪徳医師に騙されないで欲しい。そこで支払った高額な医療費は、患者の命を救うことなく、悪徳医師が銀座や先斗町で遊ぶカネになっているだけなのだ。
 がん治療において「標準治療」と「先進医療」を超える医療は存在しない――と考えて間違いない。言い換えれば、この二つの医療で治せない病気は、現状ではどうすることもできない。