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イスラム教徒にとっては国境も国民国家も民主主義もグローバル化も、所詮は「人間の産物」にすぎません。しかしイスラム教はそうではありません。イスラム教徒にとってのイスラム教は、神が人間に恩恵として与えた導きです。神の恩恵であるイスラム教が、人間の産物である民主主義に優越するのは、彼らにとっては「当然のこと」です。私たち人間には「確かな真実」がわからないのに対し、神は全知全能だからです。私たちは未来の世界について想像することしかできません。しかしイスラム教徒にとっては、いつか神の法が世界を統治する日が必ずやってくるというのが確定された未来です。なぜなら彼らは、全知全能の神が世界をそのように創造したと信じているからです。
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またイスラム法学者は寄せられた質問に対して回答を示す際、最後にきまって「神が最もよくご存知」という一言を添えます。法学者は自分の見解が神のそれと限りなく近いものとなるよう知識の限りを尽くす一方、全知全能の神の見解は所詮人間には知り得ないという謙虚な姿勢を決して忘れません。これはイスラム教の文脈においては、無責任とか思考停止といったマイナス・イメージで捉えられる特徴では決してないのですが、よそ者から見るとこれもまたイスラム教をわかりにくくさせる「因となります。
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イスラムとは服従を意味するアラビア語です。イスラム教徒は、神に服従することこそが正しい道であり、それによってしか来世での救済はありえない、と信じています。神への服従とは神から預言者として選ばれたムハンマドへの服従であり、彼の死後は彼の後継者であるカリフへの服従であるとされてきました。カリフが神の立法したイスラム法にもとついて統治を行い執行権を行使する、これがイスラム教において正しいとされる政治のありかたです。この体制を維持するため、カリフへの服従だけではなく、カリフを選任することもイスラム教徒全体にとっての義務とされてきました。
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イスラム法では全ての信者に信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼という5つの行為を義務づけていますが、現在正統なやり方で喜捨を徴収、分配しているイスラム諸国は存在しません。」方「イスラム国」は、コーランで命じられたとおりに喜捨を徴収、分配している映像の公開を通して、神の命令を忠実に実行していると主張しています。
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ただ穏健派の場合は概ね、異教徒の改宗によってゆるやかにその目標を達成させようと考える点が過激派とは異なります。イスラム教徒と知り合うと非常に高い確率で改宗を促されますが、これは知り合った異教徒をイスラム教という正しい道に導いてあげたいという親切心の表れでもあり、世界をイスラム化するという至上目的達成のための尽力でもあります。
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現存のイスラム諸国はすべて、人間のつくった世俗法によって統治されています。
「イスラム法を唯一の法源としている」とか、「イスラム法が憲法」とかあれこれいってみたところで、イスラム法そのものによる統治ではないというのは暗黙の了解です。イスラム法によって統治されている地がない以上、これまではいくらヒジユラしたくてもその行き先たる「ヒジュラの地」がありませんでした。「イスラム国」樹立宣言はこのカリフもいない、「ヒジュラの地」もないという異常事態の解消宣言でもあったのです。
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「イスラム国」が奨励しているジハードもヒジュラも「イスラム国」独自のイデオロギーではなく、伝統的に「正しい」と信じられてきたイスラム教の教義です。ジハードとヒジュラのみならず、「イスラム国」の主張していることのほとんどすべてに、そもそもオリジナリティーはありません。没個性的であること自体が、彼らの力の源泉なのです。
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イスラム教では、ものごとの善悪、正否の判断基準は神だとされます。従って実際に判断を下すにあたって最強の論拠とされるのは「神の言葉」たるコーランであり、その次に強いのが預言者ムハンマドの言行録だとされています。ですからイスラム教上の議論においてコーランというカードを切ると、大概の場合は勝つか、悪くても引き分けですみます。いちいちコーランに立ち返って考えたり、コーランの文言にあることをそのまま実践したりすることは、イスラム教においては非常に正しいやり方であり、決して時代錯誤ではないのです。
信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼、ジハード、ヒジュラといった義務は、すべてコーランで規定されています。しかしほとんどのイスラム教徒は、喜捨とジハード、ヒジュラの義務は怠っています。現代の体制派あるいは穏健派法学者はもちろん、喜捨を世俗国家によって徴収される税金とおきかえたり、ジハードやヒジュラが現代においては不必要である旨を論じたりといったことはやっています。
しかし、コーランで命じられているのだから喜捨もジハードもヒジュラも全部やるという「イスラム国」のあり方のほうが、イスラム教の論理ではより強力で正統なのですですからおのずと、それに反論する穏健派の議論は根拠薄弱で説得力に欠けるものとなります。コーランでは人間は地上における「神の代理人」とされており、ゆえに人間は神の意思を地上で代行しなければならない、というのがイスラム教信仰の要です。
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「ジハードだかなんだか知らないがテロは許さない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒とは一緒に暮らせない」といったりするのは、私たちの自由です。私たちには私たちの論理があり、その論理に従った持論を唱える権利もその論理で保証されています。しかし「ジハードはイスラム教の教義ではない」といったり、「過激な解釈をするイスラム教徒はそもそもイスラム教徒ではない」といったりすることは、明らかに越権行為です。イスラム教の教義の何たるかを議論すべきはイスラム教徒自身であり、特定のイスラム教徒に「お前はイスラム教徒失格である」などと宣言することはまさに「イスラム国」がやっていることそのものです。
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ですが、イスラム教にはイスラム教の価値観というものがあります、他者がその存在をいくら否定しようと、それは厳然と存在し続けます。イスラム教に西洋の価値観とは相容れない部分があることなど、イスラム教徒にとっては論じる必要のないほど当たり前のことです。
その当たり前のイスラム教のあり方を西洋が受け入れられないのは、それが西洋の普遍主義に矛盾するからです。もちろん西洋は西洋で、自身の価値観を防衛する権利はあります。しかし、西洋という他者に勝手に歪められ規定されたイスラム教もどきに満足できるほど、イスラム教徒たちはお人好しではありません。彼らは世界でも有数の誇り高い人々です。イスラム教徒から見ると、西洋由来の自由、民主主義、人権といった価値は全人類にとってよいものであると信じて疑わない西洋人の態度は、傲慢そのものです。その不遜で傲慢な態度でイスラム教の価値観に蓋をしたところで、彼らの期待するような成果が得られるわけではありません。
よそ者がよそ者の論理で「イスラム過激派はイスラムではない」といい、穏健派がそれに迎合し同調するような発言をすることで、よそ者たる西洋や穏健派が奉仕する世俗権力に反感を抱くイスラム教徒は、その反感をより一層強め、ますます過激な解釈に傾きます。過激派撲滅を目標とするならば、よかれと思って私たちがやっていることは、もしかしたら逆効果かもしれません。
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ところがインターネットの普及により、体制派の穏健派法学者がもつぱらイスラム教解釈を独占する時代は終焉を迎えました。というのもインターネット上ではコーランやハディースのテキストがいくらでも閲覧可能であり、それらを自国語に訳すのも簡単であるため、誰でも手軽に教義を知ることができるようになったからです。これにより、穏健派法学者たちが説き自分たちが「正しい」と信じてきたイスラム教のあり方が実は正しくないのではないか、と疑念を抱く人々が現れました。彼らはSNSやウェブ上のフォーラムなどを通して、イスラム教の教義について学び議論するようになりました。そしてインターネット上でイスラム教に関する情報や議論が増加するのに伴い、それまで穏健派法学者が説いてきたのとは異なる「正しい」教義が広まり始めたのです。
イスラム教徒ひとりひとりにとって非常に重要なのは、「今この瞬間に自分がしなければならないこと」は何かを知ることです。イスラム教の場合、「今この瞬間に自分がしなければならないこと」は自分で主体的に考えて判断するようなものではなく、神が決めることとされています。そして人間がその「神の意図」を知るには、コーランとハディース、そこから演繹された教義を知らなければなりません。イスラム教の歴史において、啓示のテキストから解釈可能な「神の意図」が人間の行為の正否、善悪を決定付けるという教義が確立されたのは10世紀前後のことです。それ以来、イスラム教はもっぱらテキストを拠り所とする思想体系としてあり続けてきました。
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私たちの目には、元知事がコーランを多少皮肉ったくらいで「死刑にしろー」と民衆が大合唱するような状況は異常でエキセントリックだとうつりますが、彼らの反応はむしろ「正しい」ものだといえます。というのも、イスラム法ではコーランを冒澄した者は死刑だとはっきり定められているからです。インドネシアのイスラム教徒は、個々人がコーランやハディースの文言に直接向き合うというイスラム的に「正しい」やり方で「正しい」教義を学んだ結果、敬虔になってきているだけです。
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インドネシアのイスラム教徒が全体的に「正しい」イスラム教徒になりつつあることと過激派が増加していることは、無関係ではありません。コーランとハディースにもとづく「正しい」教義を学ぶと、過激派の主張もイスラム教的に「正しい」ということがおのずとわかります。過激派はイスラムではないと主張する人は、イスラム教の教義を学んだことがないため知らないでそう王張しているか、教義を熟知した上で戦略的にそう主張しているかのどちらかです。
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「イスラム国」にせよ他のイスラム過激派組織にせよ、彼らのプロパガンダに共通しているのは、「自分たちこそが最も正統なイスラム教の護持者、実践者である」という主張です。特に「イスラム国」の場合は、自分たちの支配地域でイスラム法が施行されていることを示すことによって初めて、支持者たちに移住を促すことができるという点を自覚しているように見えます。だからこそ彼らは、イスラム法の施行によって人々には幸福がもたらされるという点も積極的に宣伝しています。
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こうした移住者らがカメラの前で見せるのは、イスラム法によって統治された地に生きることの幸福にみちた笑顔です。彼らにとって「イスラム国」は、恐怖政治が敷かれ有志連合の銃弾が雨霰のごとく降り注がれる「地獄」ではなく、心の底から微笑むことのできる「理想郷」なのです。
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その理由のひとつは、イスラム教が日本人の考える宗教の枠組みの外にあるように感じるからかもしれません。日本人は概ね、宗教というのは個人の心の内面に関与し世界の平和に貢献するものだと考える傾向にあります。しかしもし、宗教というのは個人の心の内面「だけ」に関与し世界の平和「だけ」に貢献するものだと規定してしまうと、個人の行動に関与し世界を戦いへと駆り立てるような宗教は「宗教ではない」ことになります。
イスラム教はまさしく信者の行動を規定し、イスラム教による世界征服を目的とする宗教ですから、日本人的感覚で見ると「そんなものは宗教とはいえない」「そんな宗教は不要である」、といったリアクションが直ちにひきおこされます。日本の中東イスラム研究者や日本人イスラム教徒らが「イスラム教は平和の宗教」と連呼する理由のひとつは、そう宣伝しないと日本人にはイスラム教が理解できないし、受け入れられないと考えているからです。しかしいくら日本人感覚にあわせてイスラム教をわかりやすいかたちに「改窟」しようとしても、イスラム教の真理は変わりません。
P154
1948年第3回国連総会で採択された世界人権宣言は、世界史上初めてすべての人間が生まれながらに基本的入権を持っていることを認めた意義深いものであり、第4条では「何人も、奴隷にされ、又は苦役に服することはない。奴隷制度及び奴隷売買は、いかなる形においても禁止する」と奴隷制の禁止を明示しています。しかしどんなに多くの国が批准しようと、これは私たち人間が作った決まりごとです。過激派だけではなくイスラム教徒の多くは、人間の作った決まりごとを神の法と比して軽視するのが通例ですから、私たちがいくらそれらを引き合いに出して奴隷制の不当を主張したところで、神の法の信奉者たちには全く響かないということを認識しておく必要があります。すべての創造者である神が奴隷制を認めている以上、神の被造物である人間にそれに逆らう術はないのです。
イスラム教は「神がいる」という前提から出発する宗教であり、その神が人間に法を下したこと、人間はそれに従わなければならないこともあらかじめ決められています。ですからその枠内においては、神の存在如何について問い直したり、神の法を否定したりすることは一切許されません。あくまでもそうした愚かな蛮行に及ぶ者は、背教者として死刑に処されるのみです。すべての人間に自由と人権が認められたこの21世紀の世界に奴隷制復活など到底許されないという主張は、このイスラム教の枠内においては認められません。逆に神が規定した奴隷制がこの世界から失われたことのほうがおかしい、という主張が出てくるのが自然です。
P156
「イスラム国」から流出した資料によると、奴隷市場における女奴隷の価格は年齢が若いほど高く、1歳から9歳で20万デイーナール(約1万9000円)、10歳から20歳で15万ディーナール(約1万4000円)、21歳から30歳で10万ディーナール(約9500円)、31歳から40歳で7万5000ディーナール(約7000円)、41歳から50歳で5万ディーナール(約4700円)とされています。女奴隷は、「イスラム国」支配領域で開催されるコーラン朗唱コンテストの「景品」とされていたケースも報告されています。このように女奴隷はあくまでも、売買や授受の対象となるモノとして扱われます。
P158
イスラム法上は認められています。奴隷化に限らず、「イスラム国」のあらゆる主張や行為は、私たちから見れば不法で不当ですが、イスラム教の論理においては合法で正当なのです。
彼らはここから、女奴隷の存在を否定する一方で娼婦の存在は認める西洋諸国は過ちを犯している、なぜなら女奴隷は多神教という闇から抜け出てイスラム教に改宗しさえすれば救済される道が残されているが、娼婦にはもはや救済される道は残されていないからだ、という論を展開します。
このことはイスラム法において女奴隷との性交は合法とされる一方、娼婦との性交は姦通という重罪を構成すると規定されていることとも関係しています。預言者ムハンマドも、「イスラム教の中に売春というものはない」といったと伝えられています。
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既述のように、イスラム法において認められた性交とは、配偶者との性交と、女奴隷とその主人との性交のみです。ですからいわゆる不倫だけではなく、未婚者同士の性交も姦通とされます。
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現代のイスラム諸国でしばしばレイプの被害にあったと訴えた女性の側が逆に鞭打ちなどの厳しい刑罰を受けるのは、これが原因です。イスラム法においてはレイプも姦通と見なされるので、レイプされたという申告は姦通行為を行ったという自白だと認定される一方、レイプ犯のほうは自白せず、また4人の目撃証人も現れなければ姦通罪は立証されません。
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レイプという行為は、外形だけを見ればこの「無効な婚姻のまま床入りが完了してしまった」場合と類似性が認められます。ゆえにレイプ後に被害者に婚資を支払い結婚することで、これはレイプではなく「無効な婚姻のまま床入りが完了してしまった」ケースなのだ、とする一種の擬制が成立します。
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しかし沿革的には婚外子をつくらないための方策であった「類似性の法理」が、現代においてはもっぱらレイプ犯の免罪のために用いられているというのは皮肉です。
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よく知られているように、イスラム教徒男性は4人まで妻を娶ることが認められています。これはコーラン第4章3節に「あなたがたがよいと思う2人、3人または4人の女を娶れ」とあるためです。しかし同節には続けて「だが公平にしてやれそうにもないならば、只1人だけ(娶るか)、またはあなたがたの右手が所有する者(女奴隷)で我慢しておきなさい。このことは不公正を避けるため、もっとも公正である」と記されているように、複数の妻には平等に接することが命じられています。
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インドネシアではイスラム教徒である閣僚が「LGBT運動は核戦争より危険」とか、「同性愛者は病気だから治療しなければならない」と公の場で発言するなど、同性愛に対する偏見は強烈です。同性愛者は病気、というのは一般のイスラム教徒からもよく聞かれる常套句です。
P169
このハディースは一般にイスラム法学者たちによって、本来的に女というのは「男を誘惑する悪魔」のような存在であるから遠ざけなければならない、という趣旨で解釈されています。男性がうっかり女性に誘惑されてしまい姦通の罪を犯してしまうと、大変なことになります。そこでイスラム法の規定はそれを防ぐために、女性は隔離されなければならないとか、女性の美しさは隠されなければならないといった方向に展開されていきます。性欲を煽るようなあらゆる物事を禁じなければならない、というのがイスラム教の基本的スタンスです。
P171
預言者ムハンマドは、「半裸のような格好で誘惑的に歩く神に従順ではない女性」は地獄に行くといったとも伝えられています。女性は常に、夫以外の男性の性欲を刺激しないように気をつけなければならないのです。女性たちが香水をつけたり、化粧をしたり、着飾ったりするのは、夫だけのためでなければなりません。こうした啓示的根拠もさることながら、同指導者の発言の根底にあるのは、女は「男を誘惑する悪魔」であるから安易に外出などしてはならず、外出する際には必ず慎み深い服装で美しさを覆い隠さねばならないという考えであり、従って慎み深い服装をしていない女は尊厳などない奴隷のようなものだから襲っても構わないのだ、という身勝手極まりない思い込みです。
P176
神は人間に対してあるべき世界の姿を示し、やらねばならないこと、やってはならないことを具体的に命じました。それを守るのがイスラム教徒であり、守らないのが不信仰者です。イスラム教徒は神の命令に従い、世界中の人々が神の法に従うようになるまで不信仰者の討伐を継続しなければなりません。
P179
彼らにとってこの風刺画は単に「笑えない」というような次元の問題ではなく、彼ら自身とイスラム教そのものが冒涜されたように感じる極めて深遠な問題として受け止められたのです。 このようにイスラム教は、宗教というよりは民主主義と対立する価値基準として認識したほうが理解しやすい場合というのが多々あります。少なくともイスラム教徒側がそう認識していることは、この問題についてデンマークで最初に抗議の声をあげたイスラム教指導者ラエド・ハラヘルが、「イスラム教は民主主義よりずっと優れた世界一の価値基準だ」と述べていることからも理解されます。
P187
イスラム教徒にとっての自由とは、この「神が与えてくださった自由」なのであり、人間の考え出した来世での保証を伴わない自由など、自由と呼ぶに値しないのです。
ですから彼らは、本章冒頭で引用したローズ編集長のコメントにある「現在の民主主義および言論の自由(中略)において人々は、侮辱や皮肉そして椰楡に耐えなければならないのだ」という前提に対して、大きな声で「ノー」といったのです。イスラム教徒は一般的に、西洋で普遍的と考えられているような意味での民主主義も言論の自由も認めませんから、当然イスラム教や預言者に対する侮辱や皮肉、椰楡に耐えなければならないなどとは考えません。「あなたの血、財産、名誉は侵してはならない」というハディースに示されているように、イスラム教ではむしろ守るべきは名誉であると考えられています。ですから基本的に他人を侮辱することは認められませんし、尊敬と模倣の対象である預言者ムハンマドを侮辱してはならないのはいうまでもありません。
P196
イスラム教において人間は全知全能の神が創造した被造物とされており、創造者たる神は主人、被造物たる人間はその奴隷と位置づけられています。人間は奴隷ですから、主人である神の命令には絶対に従わなければなりません。
P198
イスラム教はそれ自体が完成された宗教であるだけではなく、宗教の最終形でもあります。ムハンマドは最後の預言者とされているため、新たな預言者が神によって選ばれ、新たな啓示が下されることは想定されていません。
P203
イスラム教が完成された宗教で、その中にすべての答えが既に用意されていることは、イスラム教徒ひとりひとりにとっても非常に重要な意味があります。
しかしイスラム教は、こうした根源的な問いにも明解な回答を提示します。私はなぜ生まれたのかと問えば、神がそれを望んだからだと返答され、私は何のために生きているかと問えば、神を崇拝するためだと返答されます。人が自分をどう評価しているか、と悩むこともなくなります。
P204
イスラム教は、ものごとはそれ自体としては善でも悪でもなく、神が善としたものが善であり、悪としたものが悪なのだとする立場をとります。人間が理性によって下す判断は、判断をする人や状況によっていくらでも異なりますし、矛盾します。だから、善悪の判断基準は理性ではなく啓示に求められるのです。イスラム教においては、理性は啓示のような判断の源ではなく、啓示から判断を導出するための道具であると見なされています。
P208
イスラム教に改宗した人の中には、「何のために生きているのか」といった根源的問いについて考え続けた結果イスラム教という答えにたどり着いたという人や、あらゆる宗教や思想について学んだ結果イスラム教が最も正しい道であると確信したという人が少なくありません。神と信者とが聖職者などを介することなく直接的に向き合うというイスラム教のあり方に感銘した、という人もいます。イスラム教は間違いなく、そうした魅力をもつ宗教でもあるのです。
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コーラン第57章22節には、「地上において起こる災厄も、またあなたがたの身の上に下るものも、ひとつとしてわれ(神)がそれを授ける前に碑板の中に記されていないものはない」とあります。神は人間を創造する前からすべてを知っていて、それをすべて碑板に書き留めたのであり、現世ではそこにすでに書かれたこと、神がすでに決めたことしか起こらない、と信じられています。
ですから既出の2人の場合、明日15時にいつものカフェで会うと神がすでに決めていた場合には会えるだろうし、決めていない場合には会えない、という意味での「インシヤーアツラー」なのです。これは、本人たちのやる気とは全く別次元の問題です。そしてこの会話は、一方が神の全知全能性を信じていない場合には成立しないというのが基本です。
P220
なぜなら神は自身を崇拝させるために人間を創造したので、人間の体も、心も、時間も、その全てが神を崇拝するためのものでなければならないと信じられているからです。
P230
ヨーロッパ諸国は、互いが顔を見せ合うことを民主主義社会の成立に必要不可欠な要素として重視します。そしてニカーブを、女性の男性に対する服従の象徴ととらえます。イスラム教を敵視しているからでも、治安上の理由からでもなく、ヨーロッパの普遍的価値に反するがゆえにニカーブは禁じられてしかるべきなのだ、というのがヨーロッパの論理です。これは当然、イスラム教の論理とは相容れません。
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フランスには全裸で泳げるプールやビーチ、全裸のまま過ごせるキャンプ場などがある一方で、自治体によってはブルキニの着用が禁じられています。ヴァルス首相も2016年、ブルキニは「フランス共和国の価値観と相いれない」とし、「べールで覆うよりも胸をあらわにする方がよりフランスの精神にふさわしい」と述べています。
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彼らは私たちと価値観を共有していませんし、共有したいとも考えていないわけですから、どんな言葉で非難されようと痛くもかゆくもありません。「イスラム国」に至っては、自分たちの攻撃のことを「正義のテロ」と自称しています。