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 情動的共感の限界

 心理学者のデイヴィスは、人間の共感性にいくつかの次元があると考え、それらを測定する心理尺度を開発しました、、その中の1つに個人的苦悩(personal distress)と呼ばれる次元があります。たとえば「緊急事態で、援助を必要とする人を見ると取り乱してしまう」、「感情が高ぶると、無力感に襲われる」などの質問項目で測定される次元です。

 社会心理学の実験から、これらの質問にイエスと答える人ほど、他者の緊急場面を見ると自分も一緒に苦しくなってしまい、却ってその場から身を引いてしまう傾向があることが分かっています。教育学の研究からも、子供が悩んでいるときに苦悩をそのまま引き受けてしまう親ほど、適切な援助やアドバイスができない可能性が指摘されています。相手と一緒に共振する情動型の共感はとてもやさしい反面、情動に圧倒される危険も含んでいます。

 またこのタイプの共感が働きやすいのは、とくに母子間や血縁の相手、友人、同じグループの「仲間」に対してだったことを思い出してください。社会心理学で自分の所属する集団のことを内集団(ingroup)と呼びます。家族や親族はもちろん、同じ地域のコミュニティ、チーム、クラブ、学校、会社、ひいては国家なども内集団になり得ます。「情動的共感が内集団を自然な境界〔限界)とする」点は非常に重要です。

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 詐欺師の「共感」

 それでは、情動的でない共感というものはないのでしょうか。完壁な結婚詐欺師のことを考えてみましょう。自分の心の動きにきめ細かく対応し、自分を第1に思ってくれる(ように見える)相手は、とても魅力的です。詐欺師である以上、その意図が思いやりではあり得ないことは当然です。しかし相手の心的な状態を正確に読み、その気持ちに沿った「適切な」行動を(少なくとも途中まで)取るという点では、結婚詐欺師はある種の「共感能力」に長けているということができるでしょう。相手の幸福や利益を重んじる情動に駆られているわけではありませんが、認知的には相手の心的状態に「寄り添って」いるからです。

 これまで述べてきた「情動的共感」は、自他の壁をなくしてしまう「自他融合的」なプロセスを特微としていました。それに対して、詐欺師の共感は、自他間に壁を設ける「自他分離的」なプロセスを前提としています。このようなクールな共感は「認知的共感」と呼ばれます。

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 内集団を超えるクールな共感の可能性

 さらに興味深いことに、実験でこうした自他分離的な生理反応のパターンを示す参加者ほど、日常生活場面でも他者への援助を行いやすいことが分かりました。自動的に立ち上がってくる生理反応を認知的にうまくコントロールできる人ほど(つまり「個人的苦悩」に圧倒されない人ほど)、日常場面で有効で適切な援助を他者に与えられるという可能性を示唆する知見です。こうしたクールな利他性は、有能な医者や行政担当者など、緊急時の対応を担うさまざまなプロフェッショナルたちが備えるべき必要条件でしょう。

 また、社会科学の研究から、身体的・精神的な障害のある人々は、しばしば「ノーマル」な人々の外集団(outgroup)として、さまざまな偏見(スティグマと呼ばれます)やステレオタイプの対象となりやすいことがよく指摘されます。本実験の結果は、「異質な相手」に対する利他性が、自分と同質である内集団に向きがちな情動的共感ではなく、相手の立場を考慮した認知的共感によって担われる可能性を意味するものかもしれません。