P6

 このような時代にあって、コンピュータにはその片鱗すら実装されていないもの、科学者や哲学者によっては、未来永劫実装されないだろうというものがある。それは、モノを見る、音を聴く、手で触れるなどの感覚意識体験、いわゆる「クオリア」だ。

 P7

 難しいのは「クオリア問題」のほうだ。なぜ脳をもつものに、そして脳をもつものだけに、クオリア=感覚意識体験は生起するのだろうか。最新のデジタルカメラは、レンズをとおして景色を捉え、その中から顔を探し出し、そこにピントを合わせられる。しかしながら、景色そのもの、顔そのものを「見て」はいない。いわば、デジタルカメラは視覚クオリアをもたない。

 P8

 感覚意識体験(クオリア)が、私たちにとって当然のものであるがゆえに、それが意識をもつ者だけの特権だという実感がなかなかわかないかもしれない。それを理解するには、ある種の発想の転換を必要とする。
 そのきっかけとなりうるのは、私たちの見ている世界が、実際の世界とは似ても似つかないことを知ることだ。私たちは、世界そのものを見ているわけではない。私たちが見ているように感じるのは、眼球からの視覚情報をもとに、脳が都合よく解釈し、勝手に創りだした世界だ。
 日々、私たちは総天然色の視覚世界を体験するが、実際の世界に色がついているわけでは決してない。色はあくまで脳が創りだしたにすぎず、外界の実体は電磁波の飛び交う味気ない世界だ。

 P16

 脳は、視覚入力に極力忠実でありながら、同時に、可能なかぎり自然な解釈を我々に見せているのだ。その「忠実さ」と「自然さ」との間の綱引きの中で、「自然さ」が勝ったとき、ありもしないモノが我々の意識にのぼることになる。

 P21

 感覚意識体験(クオリア)が、脳の視覚処理にオマケとしてついてくるような代物ではないことを実感してもらえただろうか。クオリアは意識をもつものだけの特権であり、意識の本質である。

 P22

 ちなみにクオリアは五感に限られたものではない。他にも、思考の感覚意識体験、記憶の想起の感覚意識体験などがある。先のチェスの例で言えぽ、電子頭脳が人間を凌駕したとはいえ、人が長考するときに頭が研ぎ澄まされるような「あの感じ」、妙手が閃いた刹那の「あの感じ」を味わうことはないだろう。また画像認識にしても、顔を見てなかなか名前が思い出せず、喉元まで出かかったときの「あの感じ」を体験することもない。「あの感じ」はすべてクオリアだ。

 P144

 物議を醸したのは、脳波の立ち上がりの時刻だ。被験者が手首を動かそうと思い立った時刻のはるか○・三秒も前から、脳波の捉える脳活動が上昇しはじめている。
 つまり、被験者が手首を動かそうと意識するずっと前から、「手首を動かす」準備が、無意識のうちに、脳の中で進められていたことになる。これを素直に解釈すれば、私たちは、意識のもとの自由意志をもたない。

 P146

 そのもとで、意識のもとの自由意志を担保しようとすると大変なことになる。意識とは、脳活動を自在に変化させることのできる、脳活動以外の何か、ということになってしまうからだ。

 P182

 21世紀にも入って、サーモスタットの意識が大真面目に議論されていることに少々驚いたかもしれない。ただ、何ら不思議なことはない。私たち人類は、意識についてあきれるほどに何も知らないのだ。専門家とそうでない者との一番の違いは、「何も知らない」ことを知っていることだ。
 専門家の知る「知らないこと」、これこそが前述の主観と客観の間の隔たりである。知らないからこそ、その隔たりを何で埋められても、論理的に否定はできない。たとえそれが、「すべての情報に意識は宿る」といった一見、荒唐無稽なものであっても。
 仮にこれが正しいとしたら、ここまで本書が前提としてきた、「現代の人工物にはいまだ意識は宿らない」は総崩れとなる。チャーマーズの仮説によれぽ、月の裏側にぽつんと置かれた石も意識をもつことになる。太陽光によって伸び縮みすることで、自らの温度という情報をもつからだ。まさに万物に意識は宿ることになる。

 P185

 しかし、これらの発見は、あくまで客観と客観の間の関係性を明らかにしたものだ。質量、エネルギー、自己複製、DNA、すべて客観世界で記述されるものだ。生命もまた然り。既存の科学は、三人称的な視点から現象を捉えてきたにすぎず、すべて客観の中で閉じている。
 対する意識の科学は、客観と主観とを結びつけることを宿命づけられている。後者の主観は、神経回路網になりきり、それが一人称的に何を感じているかという、これまでの科学にはない新たな視点だ。その意味において、意識の科学は既存の科学から逸脱する。

 P188

 先述のサーモスタットの意識に触れたとき、何を思っただろうか。「そんなバカな」というのが、率直な感想ではなかっただろうか。意識とはまさに「我」のことであり、それが「神経回路網上の情報にすぎず、サーモスタットと本質的に大差はない」と説かれても、なかなか納得できないだろう。

 P190

 哲学者からのお叱りを承知であえて言わせてもらうなら、科学と哲学との違いはそこにある。一例をあげるなら、物質である脳と非物質である意識を別個に仮定する心身二元論を実験的に検証することは不可能だ。検証できないからこそ、哲学の聖域にいつまでもとどまり続けることができる。それはそれで哲学の世界では重宝されるのだろうが、自然科学の基盤となるべき自然則は、検証のまな板にのらなけれぽ、その価値を失う。

 P194

 意識の科学の現状は、ニェートンの逸話になぞらえるなら、いまだリンゴが落ちていない状態にある。

 P221

 意識の自然則は、主観と客観を問答無用で結びつけるものだ。アインシュタインの相対性理論の根幹にあたる「光速度不変の法則」と同様、提案された意識の自然則が現に成立するかを問うことはあっても、それがなぜ成立するかを問うことには意味がない。仮に成立するのであれば、この宇宙はそうなっている、としか言いようのないものだからだ。

 P224

 月の裏側の石やサーモスタットにも意識が宿るとするチャーマーズの仮説は、とてもシンプルで魅力的だが、それを検証しようとする立場からすると、捉えどころのない厄介なものに映る。その理由の一つとして考えられるのは、チャーマーズのもともとの提案の動機が、意識の自然則の必要性をできるだけ明快に、ショック療法的に示そうとしたことだ。そのために、あえて大風呂敷を広げたのか、それとも、心の底から「月の裏側の石ころにも意識が宿る」と信奉しているのかについては、哲学者の専権事項で、本人のみぞ知るところだ。