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 結婚して最初に福井に帰ったときは、元福井藩主の長男ということで、まるでお殿様のお国入りのようでした。福井駅の改札から車に乗り込むまで、旗を持った小学生がずーっと並んでいて、その大変な歓迎ぶりに何だか気恥ずかしくなったのを覚えています。二、三日しか滞在しませんでしたが、その間中、大歓迎が続きました。お家柄の良い人はもともと周囲にたくさんおりましたが、特に主人からは様々な面で家柄や人柄の品の良さが感じられました。

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 奪われるというと、私たちが生まれ育った第六天の屋敷も、戦後の華族制度廃止により莫大な財産税を課せられ国に物納されてしまいました。せめてもの幸いは、空襲の被害を免れていたことです。

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 九十代半ばを超えた私も、いつまで生きられるかわかりません。フィリピンで戦死した前の主人とサイパン玉砕から奇跡的に生還した後の主人。「井手は助からない」と言った松平が戦死し、戦死したと誰もが諦めていた井手が帰国を果たしました。戦後、私がその井手と結婚するとは、そのときは夢にも思いませんでしたが、縁というものはどこかで何らかの形で繋がっているものなのでしょう。何に左右されるかわからない戦場での生死の分かれ目、そこに運命があるのだとしたら、私のたどった人生もきっと運命だったのでしょう。二人の主人の人生を語り伝え、私なりの戦争の記憶を後に残しておきたい。齢を重ねながら、よりいっそうその思いを強くしています。

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 昭和22年(1945)12月、井手次郎と結婚いたしました。私が再婚ということもあり、結婚式はささやかなものでした。

 結婚当初は、井手の実家がある東京・目白で暮らしました。何しろ主人には兄弟が多く、目白の家は兄弟の子供らもあわせて25人家族という大所帯でした。それぞれ別々の部屋がありましたが、食事の支度などは皆一緒にいたしました。戦時中、目白は幾度も空襲に遭ったため、当時は辺り一面焼け野原でした。