P32

 土建屋の父が縁起をかつぐのは、仕事柄だったのだろうか。いつでも言っていたものだ。
 「ハナ、そうなっちゃ困ることは口にすンじゃねえぞ。昔っから日本には『言霊』ってのがあってよ、口に出すとそうなっちまうんだ。言葉の霊がよ、そうさせるんだな。だから、そうなっちゃ困ることは、腹ン中で思っても絶対に口に出すンじゃねえぞ」
 小さい頃から聞かされていたせいか、「言霊」は私の中にしみついている。
 当然ながら、今流行のエンディングノートとやらいう遺書も、まったく書く気はない。自分が死んだ後のことを生きてるうちに書くと、言霊の通りになる。
 それに、そんなものを用意しては、生きる気合いを削がれるだけだ。終活はよくない。これは岩造にもきつく言い、かたく守らせていた。
 第一、死んだ後のことなんか知っちゃいない。もめようが、仲違いしようが、生きている者の問題だ。だいたい、生きている人間が死後のことまで指図するという姿勢が、私とは合わない。

 P44

「これからも、自分を信じて描き続けます」
 出た!猫も杓子も言う「自分を信じて」という言葉。まったく、自分の何を信じると言うのだ、何もないだろうが。

 P116

 「未亡人」。
 「未だ亡くならない人」だ。夫が死んだのだから、そろそろ妻もいかがですかということか。
 パーティ会場を早々に出た私は、「未亡人」とは余生を消化している人なのだと思った。
 人間に「余りの生」などあるわけがない。だが、今の自分を考えると、なぜ生きているのかわからなくなる。