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答えはあなたが想像するより単純だ。保証などないのである!世のなかには原理的にさえ正確な予測のつかない現象はいくらでもある。たとえば、〈カオス〉を生み出すさまざまな力学系。初期条件のわずかな変化がまったく異なる最終結果を生むからだ。カオスを示す現象としては、株式市場、ロッキー山脈上空の気象パターン、ルーレット盤のなかで弾むボール、タバコの先から立ち昇る煙、それから太陽系の惑星の軌道が挙げられる。
確かに、数学者たちはこういった問題の重要な性質を解き明かす、巧妙な数学的形式を生み出している。それでも、決定的な予測理論は今のところ存在しない。確率論や統計学といった分野は、まさにこういった問題に立ち向かうために作られたものだが、”入力”をはるかに上回る“出力”を生み出す理論はない。同じように、〈計算複雑性〉と呼ばれる概念は、実際的なアルゴリズムを用いた問題解決能力の限界を明らかにしている。
そして、ゲーデルの不完全性定理は、ある意味で数学の限界――それも数学内部での数学の限界――を示している。したがって、数学は特に基礎科学の記述に関しては抜群の威力を発揮するが、われわれの宇宙のあらゆる側面を記述し尽くすことはできない。つまりある意味では、科学者たちは数学で解決でぎそうな問題を選び出し、研究してきたとも言えるのだ。
これで数学の有効性にまつわる謎は一件落着だろうか?最善は尽くしたつもりだが、全員が本書の内容に完全に納得してくれたとは思っていない。しかしながら、最後にバートランド・ラッセルの著書『哲学入門」から一節を引用し、本書を締めくくりたいと思う。
それゆえ、哲学の価値に関する議論は次のようにまとめてよいだろう。問いに対して明確な解答を得るために哲学を学ぶのではない。なぜなら、明確な解答は概して、それが正しいということを知りえないようなものだからである。むしろ問いそのものを目的として哲学を学ぶのである。
なぜならそれらの問いは、「何がありうるか」に関する考えを押し広げ、知的想像力を豊かにし、多面的な考察から心を閉ざしてしまう独断的な確信を減らすからだ。そして何より、哲学が観想する宇宙の偉大さを通じて、心もまた偉大になり、心にとってもっともよいものである宇宙とひとつになれるからである。[『哲学入門』高村夏輝訳、筑摩書房。一部改変]
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しかし、集合論を少しかじった人ならわかると思うのだが、宇宙のような広大な領域に存在する点の数も、たとえば1ミリメートル程度の区間に存在する点の数も、濃度という観点では同じである。つまり、無数の点が集まる領域に”自動的に”われわれの宇宙のような構造が存在するのだとしたら、たとえぽミジンコのような生物の中にもわれわれの宇宙と同じくらい複雑な構造が存在しないともかぎらない。ミジンコそのものがひとつの宇宙(宇宙の集合)である可能性は否定できないのだ。
そのミジンコの中には、”ミジンコ素粒子”(われわれの宇宙にある素粒子よりもはるかに小さい素粒子)があり、”ミジンコ電子”があり、”、ミジンコ原子”があり、”ミジンコ水”があり、”ミジンコ地球”があり、”ミジンコ銀河”があるかもしれない。そして”ミジンコ人間”が「われわれの宇宙の外側には何があるのか」と考えを巡らしているかもしれない。もちろん、われわれの宇宙さえ、たったひとつの超巨大ミジンコの中にあるひとつの宇宙なのかもしれない。そして当然、その集合の中には任意の数学的構造が存在しうるわけだから、無機生物のようなものが存在する宇宙や、その逆で何もない宇宙、あるいはわれわれには想像も付かないような構造で成り立つ宇宙があってもおかしくない。そういう宇宙が、人間にとって観測可能(アクセス可能)とはかぎらない。金魚鉢の中の金魚が、論理的に決して鉢の外の世界を知れないのと似ている。
今、両手で水をすくうとしよう。その瞬間、そこに宇宙ができる。いわば“ビッグバン”である。そしてどこかに必然的に”惑星”が生まれ、”人間”が生まれる。その中で人間は宇宙の神秘を解明しようと何億世代にもわたって懸命に考えつづける。私が両手に溜めていた水を放す。その瞬間にその宇宙は消滅する。私にとってはほんの2〜3秒の出来事であっても、その水の中の宇宙では1000億年くらいが経っているかもしれない。無数の点(素粒子)があれば、局所的にはそこにどんなに奇跡的な構造が生まれてもおかしくはない。ちょうど、ある無限小数のどこかに1が100回連続して現れる箇所があってもなんら不思議ではないのと似ている(スケールはだいぶ違うが)。この宇宙が奇跡的なまでに神秘だとするなら、われわれは奇跡的なまでに神秘な場所に生まれたから、そこを奇跡的だと感じているにすぎないのかもしれない。
いささか妄想に近くなってしまったが、このような妄想でさえ、真偽が誰にもわからないからこそ、哲学というのは面白いのではないかと思う(もちろん、この妄想に穴がある場合は謝罪したい)。本書を通じて、ひとりでも多くの人が数学の本質、宇宙の本質、人生の本質について考えてくれれば、訳者としてはこのうえない喜びである。