P161

 アメリカのイデオロギーは、一部の人のものではない。普通の人が持つものだ。そして、それは個別問題に関する意見ではない。いわばそれらを貫く「人生哲学」なのだ。軸があってプレないのがカッコいいことだとすれば、その人生を貫く価値観を与えてくれるのが、コンサバとかリベラルとか、そういったイデオロギーということになる。

 P164

 この格差をどう考えるかについて、リベラルとコンサバは、決定的な違いを持つ。自助努力を重んじるコンサバは、経済は自由な市場に任せるべきであって、政府の介入は最小限にすべきと考えている。それが経済を活性化させる一番の道というわけだ。税金を増やして、それを社会福祉にまわし、貧困層に還元したり、教育予算に充てることについて、コンサバは消極的だ。それに対して、リベラルはそういう自由競争で「弱者」が切り捨てられることを憂う。だから、再配分を重んじ、税金を増やして、政府によるコントロールを強めることが、典型的なリベラルの主張だ。

 P165

 大きく言えば、政府の介入を最小限にして自由に競争するのがよいとするのは共和党、それに対して、政府が格差を是正して平等な社会を実現しようとするのが民主党だ。
 アメリカの民主党とイギリスの労働党は、政権担当能力を持つ、数少ないリベラル政党として知られている。彼らに政権担当能力があるのは、軸を持った政党だからだ。つまり、国民に対して語るべきひとつの物語がある。こういう国を実現したいという理念から始まって、それを実現するための政策に至るまで、一貫したひとつのストーリーとして提示する力を持っている。

 P166

 日本の民進党は、イデオロギー的な核のない政党である。軸がないがゆえに、安倍自民党のやることなすことにケチをつけることが、民進党の党是となっているように見えてしまう。

 P169

 「シニア世代の安心を守る」と「次世代にツケをまわさない」という約束を、平気で並べて書くところにも、民進党の姿勢がよく表れている。シニア世代と次世代の間には、埋めがたい利益相反がある。現行のシニア世代に多くの支出をすることは、すなわち、そのツケを次世代にまわすことなのだ。あちらを立てればこちらが立たずの両方の公約を、ご丁寧に同じページに並べた民進党のパンフレットからは、彼らのセンス(のなさ)がうかがえる。
 このように、民進党の場合は、政策の一貫性のなさがとかく目立つ。これでは、イデオロギー的な核がなく、自民党に反対するだけの野党と呼ばれても、致し方ない。

 P172

 朝日新聞などの「リベラル」とされるマスコミは、このような政府による労使への介入を「官製春闘」と呼んで批判した。日本「リベラル」の一貰性のなさが、ここにも露呈してしまう。賃金の引き上げは、労働者の味方であるリベラルが求めてきた政策だ。それをなぜ批判するのか。だが、左翼マスコミからすれば、苦肉の策であろう。自民党に手放しで賛同するのは、プライドが許さない。本音を言えば、本来リベラルが提唱すべき政策領域を侵食し、我が物顔で手柄を立てることこそ、彼らは批判したかったのだろう。労働組合を重要な支持母体として持ち、「労働者の味方」を標榜していた民進党からしても、自民党による熱心な賃上げ要求は、まさにお株を奪われた形だ。

 P179

 さて、日本に話を戻したい。日本ではなぜ「大きな政府」か「小さな政府」かという議論が、リベラルとコンサバを分ける分水嶺にならなかったのだろうか。様々な要因があろうが、戦後の自民党が、常に「大きな政府」を志向していたことを指摘しておきたい。自民党に「大きな政府」論をいいとこどりされてしまったので、マクロ経済から財政、外交まで、リベラルが、自民党との違いを明確にし、かつ、一貫した政策を提示するのが難しくなったのではないか。先ほど述べた安倍政権による「働き方改革」は、「いいとこどり」の典型例であろう。
 再配分による格差是正という、アメリカ民主党の基本的な主張は、日本の自民党の政策と一致している。したがって、自民党に対するアンチテーゼを提示したい野党も「平等」か「競争」かという論点を持ち込むことができなかった。そして、自民党の「大きな政府」志向の背景には、派閥による分配政治という、長く続いた自民党一強体制の中で、党と霞が関が「体となって作り上げた日本独自のシステムがあった。

 P196

 リベラルは、人間の理性がすべての困難を乗り越えると信じている。社会問題には、イデオロギーが最も表れやすい。生命倫理も、同性婚も、リベラルは入間の選択を絶対的に信頼する。自分の人生を選び取る力が入間にはあるーそれがリベラルの基本的な視座だ。「大きな政府」理論は、人間の理性がコントロールする領域を増やすことを意味する。景気を改善し、格差を是正し、最終的にリベラルは自然さえも従属させることを望む。そして、人権を重視する自らの民主主義は最も優れているという純粋な思い込みによって、「未開の地」に民主主義を広めて、管理できる領域を増やそうとする。
 対するコンサバには、自分への懐疑が常にあった。人知を超える大きな力の前では、人間の理性など空しいというのが、彼らの考えだろう。そのときどきで正しいと信じられることは、決して永遠ではない。だから、人は大自然の前で謙虚でなければならない。
政府のコントロールを最小限にして、景気は市場に任せる。再配分によって経済格差を政策的に是正しようとせず、競争に任せる。
 同じ理由で、海外への介入も最小限にする。我々の民主主義が世界最高と誇るのは、限られた時代しか体験していない人間の独善かもしれない。だから、海外に民主主義を広めるよりも、孤高のガンマンとして、一匹狼的な相互不干渉を好む。異文化を尊重するのも、どちらかといえばコンサバのほうだ。そして、政府に対する徹底的な不信がその根っこの部分にある。

 P197

 こう考えると、リベラルの本質は人間の理性への信頼、コンサバの本質が人間への不信となり、すべてはここに帰着する。

 P204

 相手から失言を引き出して、または、なんらかの言質をとったうえで、そこを刺しにいって捨て台詞を吐くスタイルは、蓮肪氏の鉄板だ。個人的には、海外刑事ドラマか何かの見過ぎではないかと懸念しているが、実際のところ、検事だっていまどきこれほど居丈高には尋問しない。

 P214

 知を担ってきたリベラルは、2016年の大統領選挙でトランプの当選を許した手痛い敗北の後に、新たな動きを見せている。リベラルとコンサバの違いを探すことではなく、共有できる価値を見つけようとし始めたのだ。
 2016年の選挙では、既得権益としてのエスタブリッシュメントの負の側面が強調された。しかし、それだけではない。彼らは同時にアメリカの良識の担い手という正の側面もある。長年、左右に別れて選挙のたびに戦ってきた彼らは、しかしながら、どちらも強烈に愛国的だ。アメリカは特別な国と無邪気に信じ、そしてアメリカを特別にしているものは何かと考える。人種差別を乗り越えようとしてきた歴史か、それとも、人々の自由を守る戦いか。アメリカが共有してきた神話を探ることで、彼らは連帯の動きを見せつつある。