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 年をとると誰でも、脳が全体的に少しずつ萎縮するものなのだが、初期のアルツハイマー型認知症の人は、全体的な脳の萎縮に比べて、海馬の萎縮が著しく大きい。海馬だけが年齢不相応に縮んでいるのである。
 海馬は、「今ここ」で起こっていることを長期記憶として蓄えるために重要な役割を果たす。

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 「デフォルト・モード・ネットワーク」というのは、集中しているときよりも、休んでいるときや、リラックスしているときの方が活動する脳部位が組んでいるネットワークのことである。

 集中しているときに起こったことを、休んでいるときに整理する。「この出来事は昔やっていたあの出来事に似ているから、これとあれとを結びつけておこう」とか、「これは以前にも経験したことだから、生きていく上で重要なものとして保存しよう」とか、「これはいままでに一度も体験したことがないことで、今のところよくわからないことだから、このままここにおいておこう」とか、眠っている間、休んでいる間だからこそ、経験の整理整頓ができるのである。集中することも大事だが、休憩も、脳は同じくらい必要としている。

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 後頭頂皮質や、海馬は、この整理整頓に重要な役割を果たしているわけである。母は、このデフォルト・モード・ネットワークがうまく働いていない、とわかった。それは、現実の刺激がむやみやたらと頭に入ってくるばかりで、記憶の整理整頓ができておらず、実質的に何か意味があることをつかみ出しにくい状態になっているということである。

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 たとえば、デフォルト・モード・ネットワークを活性化させるのには、ぼうっと散歩をすることはとても良いと言われている。

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 それゆえに、デフォルト・モード・ネットワークが活性化し、記憶の整理整頓ができる。座っていたら、自分の心配事ばかりにとらわれてしまうかもしれないが、その心配事から気を逸らしてくれる刺激が外にはたくさんある。「何か特別なことを考えろ!」と自分で頭に命令しないで、そういう外から自然に飛び込んでくるものにまかせていると、ちょうど良い具合に無意識が刺激されて、リラックスして、人生で起こったさまざまな思い出が蘇ってくるのだ。

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 「短期記憶」は、その名の通り、ほんの数秒だけ保持している記憶のことだ。たとえば、電話をかける間だけ電話番号を覚えておくなど、ある作業を完了するために数秒間だけ保持する記憶がそれである。用が済んだら、すぐに手放す記憶、これは主に前頭葉が司る。

 この宣言的記憶を作ったり、思い出したりするためには、海馬の働きが欠かせない。それゆえに、宣言的記憶は、アルツハイマー病では、深刻な影響を受ける。新しいエピソードが定着できず、「味噌汁を作ろうと思った」ことを忘れたり、昔のエピソードをうまく語れなかったり、適切な単語がうまく思い出せなかったり、することになる。
 これに対して、「非宣言的記憶」とは、長い間保持されている、言語化されない記憶のことだ。たとえば、自転車の乗り方、スキーの滑り方、慣れ親しんだ家までの帰り方、鍵の開け方などのように、人間には言語を介さず、くり返し「体」を使ってやってみたために覚えている記憶がある。この記憶は大脳基底核や小脳が主に司っている。それゆえに、非宣言的記憶も、アルツハイマー病では問題がないことが多い。

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 つまり、少なくとも初期のアルツハイマーで起こっている「思い出せない」という現象は、記憶が消えてしまったからではなく、そもそもうまく情報を記憶として定着させることができないことと、昔の記憶は残っているのにうまく取り出せなくなっていることから起きている。記憶自体は消えていない。だから、昔のことについては、うまくアクセスすることができれば、いつでも蘇る可能性があるのである。

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 また、「昔の記憶の方が鮮やかである」というのはどのような意味か?
 海馬に問題があると、新しいことが覚えられないことに加えて、昔のことでも、直近数年分の記憶は思い出しにくくなることがある(「逆行性健忘」)。大脳皮質への記憶のストレージは、何年もの時間をかけて行われるので、海馬に損傷を受けたときからさかのぼって数年分の記憶は、まだ十分に大脳皮質に定着されていないために、影響を受けてしまうと考えられている。つまり、宣言的記憶に関しては、誰でも、昔のことであればあるほど、忘れにくいものになっていることがわかっている。

 P97

 我々の人生で経験した出来事はほぼ無限である。だからゴルトンは、次々尽きることなく新しいことが思い出されてくるのかと思ったのだが、残念ながらそうはならなかった。「自分が思っているよりも、たくさんの出来事を覚えていることは事実だが、自分が想像するほどには、多くなかったことも事実である」
 つまり、少なくともこのゴルトンの研究によれば、我々の思い出は、一応、有限らしい。
 我々が世界の中から受け取っている感覚情報はほぼ無限である。毎秒毎秒、目から、耳から、鼻から、皮膚から、内臓から、我々の脳は膨大な情報を受け取っている。その全てを、脳というたった約一リットルという体積の物質に収めようとするのは無理があるのだろう。だからこそ、我々は、感覚を体験に変えて保存している。現実そのままを記憶しているのではなく、刺激から「意味」を抽出して記憶している。
 それが記憶が有限である一つの理由だろう。
 また、それは、他人と自分とを分ける理由にもなる。同じ出来事を経験しても、他人は違う角度から眺め、違う「意味」を抽出するからである。
 そして、記憶が「意味」である以上、後々の経験によって、変更は免れない。色々な経験をすることで、記憶同士が結びついて、意味が深まっていく。

 P122

 現状のおかしさには、脳は、なんとか理由を付けて理解しようとする。だから、この病気の人でなくても、大事な物をなくすなどして、うまく理由を辿れないと、「あいつが悪いのではないか」と他人を疑ってしまう。今現在の状況(「大事な物がない」という状況)と、常識(「自分で自分の物を隠したりはしない」という常識)から、普段からそれを一番やりそうに見える人に濡れ衣を着せてしまうのだ。

 P133

 美術館に行って、彫像を見て帰ってくる。このとき、ただ見て帰ってきた人と、見た上で最後に写真を撮って帰ってきた人と、どちらの方が後々までその彫像のことを細部にわたって覚えているか、ということを調べた実験がある。
 結果は、前者の、ただ見て写真を撮らずに帰った人の方が、彫像のことを後々まで詳細に記憶していた。写真を撮ると、写真に残っているから、わざわざ自分の中に残しておく必要はない、と脳は記憶を手放してしまうのだ。
 人の話を録音したり、メモしたり、ということも、写真を撮るのと同様で、録音機やノートという、脳が記憶の外部装置として使える物があることになるので、脳は記憶を手放してしまう。
 「後ではもう見られない、聞くことができない」という条件が、脳そのものを本気にするのである。写真、録音機、ノートなど、後から別の場所を頼れば、また見られ、聞くことができるならば、脳は効率化を図って、参照先だけを覚えておくことにする。
 写真や録音機やノートに記憶を外部化しておいて、必要なときにそれを参照しに行った方が、脳は、他の、くり返しのきかない大事なものを蓄えられる。

 P145

 彼らは、自分がしてしまうミスにより、また、それに対する他人からの反応により、自分が無能であると感じ、自我が傷つけられ、脅かされていた。そのように自覚的だからこそ、失敗を隠し、とりつくろっていた。第三者はこのとりつくろいを見て、「自覚がない」と判断していたが、自覚があったからこそ、本人たちは、必死で自分を守ろうとしたのである。