P20

 このようなワーキングメモリの特徴に加えて、作業スペースに展開されている情報の統合や切り替え、必要のない情報の排除を担う実行機能と呼ばれる、人の情報処理の司令塔的な機能は、加齢によって顕著に低下します。

 課題を行っている際の脳の活動部位を特定する機能的脳イメージング研究から、前頭前野が実行機能で重要な役割を担っていることがわかっています。前頭前野は加齢の影響を受け変化しやすい脳部位であるため、実行機能のパフォーマンスは高齢者では低下します。結果として、単純な課題であればこなせても、複雑な課題になるほど、また単純な課題でも並行して行う課題の数が増えるほど、情報の操作の効率が落ちます。

 加えて、20歳以降、情報を処理するスピードも全般的に遅くなっていきます。この処理速度の遅延は、特にワーキングメモリのパフォーマンスに影響を与えます。難しい課題を解決しなければならない時、多くの情報をワーキングメモリに並べて、それぞれの情報を切ったり貼ったりしながら適切な解決方法を見出す必要がありますが、情報処理のスピードが低下すると、短期記憶として保持できる一分未満の時間制限を過ぎ、作業が完成しないうちに作業スペースに挙げられている情報が失われてしまいます。

 P38

 アンチエイジングという言葉に代表されるように、加齢や高齢という言葉は、抗うべきネガティブな現象として捉えられがちです。しかしながら、加齢によってすべての能力が衰えるわけではなく、ポジティブに変化する機能もあります。生涯発達的な観点からみると、「知恵」のように、成人期以降に出現し高まる能力の存在も指摘されています。

 知恵には、教育によって育成される学問知、経験によって培われる経験知、判断力、問題解決能力、対人スキルなどさまざまな要素が含まれます。ここでは、そのような知恵の基盤であり、加齢の影響がみられない、あるいは、影響があってもほとんど低下しない記憶機能についてみていきます。

 P43

 20〜89歳までの345人を対象に、知識を担う意味記憶の指標として、提示された単語と最も近い意味を持つ単語を選択する課題、提示された単語と同義語を選択する課題、提示された単語と反義語を選択する課題といった複数の課題で、70歳代まで得点が増加することを明らかにしています。

 学生から「年をとったらどうせ記憶力が悪くなって思い出せなくなるのに勉強をし続ける意味があるのですか?」と質問されたことがあります。回答は「人生をつうじて獲得した知識は蓄積され続け、年をとっても忘れないし、それが知恵の基盤になります」です。

 P45

 「こんちには、おんげきですか、わしたはげきんです」。この間違いだらけの文章を理解できるのはなぜでしょうか。「こんにちは、おげんきですか、わたしはげんきです」と読めてしまうのは、これまでに何度も「こんにちは」という単語に接していることで、似た形態をした「こんちには」を無意識に「こんにちは」と読んでしまうからです。

 これはプライミングと呼ぼれ、先行して提示された情報が、あとに続く情報の処理に影響し、情報へのアクセスの効率化や情報の処理スピードを速める、私たちが意識することなく使用している自動的な記憶の一つです。プライミングは思い出すという意識をともなわず、言語化もできない記憶なので言葉での説明では理解するのが難しいかもしれません。しかし、多くの人はおそらく子どもの頃にプライミングを使った遊びをしています。

 P46

 そして、「一を聞いて十を知る」ような人は、単に知識が多いだけでなく、それぞれの知識が関連づけられ、一つの情報が与えられた際に、多くの情報にアクセスできる人だと考えられます。

 健康な高齢者を対象とし、プライミングに加齢が及ぼす影響を検討した4年間の縦断的研究は、加齢による低下が認められないことを報告しています。これまでのプライミングに関する研究を概観すると、プラィミングにおける加齢の影響はない、もしくはあってもごくわずかです。

 人生で獲得した知識(意味記憶)のネットワークは高齢期でも維持され、プライミングの基盤となる情報の自動的なアクセスも加齢の影響を受けにくい記憶です。そのため、若い人と比べて複雑な思考を行う能力が低下していても、多くの経験からたくさんのことを学び知識のネットワークを広げた高齢者は、一つの情報からその背景にあるさまざまな事柄を把握できるのです。

 P60

 今から40年以上前に、カナダのカルガリー大学のロジャース博士らは同じ情報を覚える際、覚え方を変えることが記憶成績にどう影響するかについて実験を行いました。

 彼らの実験では、参加者に形容詞40個を提示し、それぞれの形容詞について4つの異なる判断を求めました。一つ目は形容詞の文字の大きさについて判断する条件(文字の形態の判断)、二つ目は別の単語XXXXの韻を踏んでいるかどうかの判断(文字の音の判断)、三つ目は別の単語YYYYと同義語であるかどうかの判断(意味的な判断)、四つ目は形容詞が自分にあてはまるかの判断です(自己関連の判断)。このような判断を行ったあとに、それぞれの形容詞を思い出してもらいました。

 P62

 意味記憶で述べたように、知識はネットワークでつながっています。そのため、他の情報との意味的な関連を持たせずに単に丸暗記すると、思い出す時の検索の手がかりが少なくなり、「わかっているけれど思い出せない」という状況が生まれやすくなります。

 とはいえ、情報を覚えようとするたびに、別の知識と関連づけたり、意味づけを行うには、かなりの労力が必要となります。「丸暗記ではなく、意味で覚えなさい」「理解して覚えなさい」とは、よく言われますが、それが良いとわかっていても、なかなか実行に移せないのも事実です。

 P63

 このような認知的負荷の高い作業を労力なく実行するためのヒントとなるのが、四つ目に挙げた、形容詞が自分に関連しているかどうかの判断です。この判断を行った時の記憶成績は、他の条件と比べて最も高くなっています。ある情報が自分自身と関連しているかどうか、特に、関連している場合には情報が記憶される確率が高まります。これは自己準拠効果と呼ばれています。

 P64

 なぜ興味が記憶を促進するのでしょうか。興味のあることに取り組んでいる時には、興奮や高揚感があります。感情は脳の扁桃体が働くことで喚起されます。扁桃体は、幸せといったポジティブな感情、恐怖や怒りといったネガティブな感情だけでなく、自己に関連する情報に対しても反応します。

 扁桃体の活動は、視覚的な情報や聴覚的な情報を処理する視覚野、聴覚野での処理を促進することが報告されています。つまり感情を喚起する情報と感惰をともなわない情報では、脳の処理が異なるということです。脳は自分にとって大切な情報に意識を向け記憶するように働きます。

 どのような感情であれ、感情が生じるということは、その情報が重要であることを意味します。裏返せぱ、覚えられないと思っていた情報も自分にとって重要で関連があると思うことができれば、その情報を記憶できる確率はぐっと高まります。

 P67

 老いに対する否定的な思い込みによる記憶成績の低下を防ぐには、どうすればよいのでしょうか。高齢になると記憶が低下するという、老いのネガティブな情報は世の中にあふれています。フェルナンデス−パレステロス教授らは、自分自身の老いを肯定的に評価している人は、そのような偏見の影響を受けにくいことを、反対に自己の老いに対して否定的な評価をしている人は、思い込みや偏見の影響を受けやすいことを明らかにしています。

 P90

 脳に変異がみられ、明らかにアルツハイマー病であるにもかかわらず、日常生活では問題なく自立した生活を過ごせることを示した研究があります。678人の修道女を対象に1986年からはじまった「ナン・スタディ」と呼ばれる研究プロジェクトは、認知症の予防の可能性を示した研究として広く知られています。「ナン・スタディ」は、身体機能や認知機能の検査、修道院に保管された生活記録に加えて、献体された遺体の脳の解剖から、加齢やアルツハイマー病を解明しようとする研究プロジェクトです。

 脳の解剖結果と、生前の記憶やその他の認知機能の関連性を調べると、脳の萎縮が顕著にみられアルツハイマー病である明らかな証拠があったにもかかわらず、生前にアルツハイマー病の症状がみられなかった修道女が複数人いました。また、認知機能の加齢による衰えの個人差は大きく、80歳を超えても記憶検査で50歳代の得点をとれる人がいます。認知症の症状の程度や加齢にともなう認知機能の低下に、個人差がみられるのはなぜでしょうか。

 スターン博士は、加齢や認知症にともなう認知機能の低下の個人差を説明する概念として、「認知の予備力」を提唱しました。

 「認知の予備力」とは、機能低下の個人差を説明する概念で、情報処理に必要な能力をどれだけ蓄えているか、低下した機能を適切な方略によって代償することが可能か、といった個々人が有する認知機能の質や量を意味します。

 予備力が高いほど、加齢にともなう脳機能の低下に起因する認知機能の低下が小さく、前述の修道女のように、アルツハイマー病を罹患したとしても認知障害が発現しにくいと考えられています。これを裏づけるように、認知機能と教育歴との関連性を検討した疫学研究は、教育水準が低いと、加齢にともなう認知機能の低下が大きいことを報告しています。

 P93

 訓練による記憶力の向上に関する研究は、特にめずらしいものではなく、古くから行われています。今から40年ほど前、『Science』誌に掲載されたエリクソン博士らの研究では、平均的な知能と記憶力を持つ学生に対して、一秒に一つのペースでランダムな数字を提示し、それを覚える訓練を行いました。一日一時間、週に三日から五日の訓練を20ヵ月つづけた結果、はじめは一度に7桁しか記憶できなかった数字が、20ヵ月後には80桁まで記憶できるようになりました。

 その一方で、記憶する情報を訓練で用いた数字から文字列に変えてしまうと訓練効果がなくなってしまったのです。この結果は、訓練によって特定の清報に対する記憶成績が向上したとしても、その記憶成績の向上が他の情報の記憶には影響しない(転移しない)ことを明確に示しています。また、訓練によって獲得されたのは数字を覚えるための効果的な方法であって、短期記憶の記憶容量そのものは増えていなかったと結論づけています。

 P152

 あなたが今読んでいるページを写真のように記憶できるのは数ミリ秒(1ミリ秒=1000分の1秒)、聞こえる音をそのままの音として記憶できるのは数秒程度です。物理的に存在する情報をそっくりそのまま記憶できる期間はあまりにも短く、すべての情報を覚えることは驚異的な記憶の持ち主でもない限り不可能です。そのため、覚えたい情報のみを取り出し、その情報には何らかの意味づけを行う必要があります。また、第1章で述べたように、意味づけられた情報も時間とともに詳細が思い出せなくなり、大まかな粗筋だけが残ります。

 P179

 表出抑制によって、ネガティブな感情の表出を抑えることができたとしても、それはネガティブな感情を経験する頻度が少なくなったことを意味しません。また、抱いている感情と表出される感情が異なるため自己不一致感につながりやすく、表出抑制はポジティブな感情、心理的安寧、主観的幸福感を低下させ、ネガティブな感情、不安、抑うつを高める不適応的な方略であると特に欧米では考えられています。

 P184

 後悔は大きく、○○しなければよかった、という「行ったこと」に対する後悔と、△△すればよかった、という「行わなかったこと」に対する後悔に分けられます。人は最近のことを振り返る短期的視点では「行ったこと」をより強く後悔し、人生を振り返る長期的視点では「行わなかったこと」をより強く後悔する傾向があります。

 もう一つの後悔の解消の方法は、記憶の再構成です。私たちの経験や経験に対する評価は、その後の経験で常に書き換えられます。経験した事実は変えられませんが、事後情報効果にあったように、その後の経験が過去の後悔や嫌な思い出を再解釈するきっかけを与えてくれる可能性もあります。

 エリクソン教授は、高齢期の心理社会的発達課題である絶望と統合のバランスに必要なものを挙げています。それは、これまでの経験を思い出し再検討しようとする意欲。そして、年老いても成長し続けるためのやる気と努力です。年老いても成長し続けるためのやる気と努力を失わなければ、たとえやり直しのきかない後悔があったとしても、その後悔から得た教訓や後悔の意味を見出すことで、それらの経験が無駄ではなかったと思うことができます。