夜勤者は別として、調理担当は朝食準備のため、隊の中でも起床が早い。いつも通りのルーティーンでトイレを済ませてから厨房に入るのだが、トイレまでがとにかく遠い。私の部屋から150歩、それでも近いほうなのだが、トイレまでの通路を歩いているだけではっきりと目は覚めてくる。長くて薄暗い下り坂の廊下をおりきって男子トイレの前を通過しようとしたところで、人に出くわした。それは普段もよくあることでなんら驚くことではないのだが、その日は少々ぎくりとした。なぜならそこにいたのは数時聞前に激論を交わしたおじいちゃんだったのだから。私の思考が回転する前におじいちゃんが「ごめんなさいっ」と頭を下げてくれた。それに対して自分が何と答えたのか思い出せないのだが、それで隣人トラブルは解決に至った。

 のちに男性隊員から聞いた話では、Barを立ち去った後、おじいちゃんはたばこ部屋(喫煙室)に逃げ込んだ。そして、そこに居合わせた隊員にどうすべきかを相談した結果、「とにかく謝れ!」ということになったらしい。

 この一件で、私は隊員とどのように接するのがより良いのかを身をもって経験した。激論を交わしておじいちゃんの価値観を知ることができたことは無駄ではなかったし、きっとおじいちゃんと同じような考えの隊員が他にいてもおかしくない。

 この時、私は隊員試験の2度目の選考時の面接官を思い出した。1度目の選考では書類で落選してしまい、面接まで進めなかった。2度目は書類選考を通過し、面接まで進むことができたのだが、そこである面接官から言われた言葉に私は答えられなかったのだ。それまでの私は面接まで進んで、直接、自分の言葉で熱意を伝えられたら選考に通るのではないか?と青二才な考えを持っていたのだが、世の中そんなに甘くない。

 観測隊OBであろう年配の面接官の男性は「人間関係でもめたらどうしますか?」と質問してきた。私は答えに窮してしまって即答できずにいたのだが、何とか思考を巡らせて「越冬を成功させようという同じ目標さえあれば大丈夫なのではないでしょうか」と答えた。想定外の質問で、我ながら満足のいく答えではなかったのだが、その後の面接官の仕草と言葉が印象的だった。「そうでもないんだよ」と言って鼻でふっと笑ったのだ。

 それから1年、3度目の選考までの間、その面接官の質問への答えを模索し続けた。何が正解なのだろう、あの面接官が求めていた答えは何だったのだろう。答えに詰まった後悔でグズグズしながら考えてはみたものの、結局答えらしい答えも見つけられず、3度目の選考の冬が来た。無事、1次の書類選考を通り、2次選考の面接の連絡を受ける。さあどうしたものか、でもどうにもならない。

 面接へ行くと、昨年は1対8だった面接が、今年は1対10と面接官が増えていた。加えて部屋が異常に寒いのも気になったが、誘導されるがままに席につく。いくつか想定内の質問に答えながら、昨年の面接官の姿を確認しようとしたが、記憶が曖昧でどの人か確信が持てなかった。なんて余計なことに考えを巡らせていたら、とうとうその時がやってきた。

 「南極で人間関係のトラブルが起きたらどうしますか?」

 私は自信たっぷりに「その時に考えます。実際、どのメンバーで越冬するかは現時点ではわかりません。もちろんどんなトラブルが起きるかもわかりません。今、策を考えたところできっとその通りには事は運ばないでしょう。であるならば、私はトラブルが起きた時に何がベストなのか、その隊員と模索したいと思います」。我ながらよくいけしゃあしゃあと言えたものだと思ったが、嘘はついていない。

 結果、私の「壁にぶち当たってから考える作戦」は成功し、念願の南極地域観測隊(候補)になったのだが、思えば本当にあの面接官の言った通りになったもんだ。

 30人いれば価値観も30通りなわけで、しかも平均年齢が40歳超となるとなかなか素直にはなれない。あの時、おじいちゃんが謝ってくれなかったら、きっとおじいちゃんとのわだかまりを解消できないまま越冬生活を終えただろう。もしかしたらおじいちゃんは私のプライドを傷つけないよう、自分から謝ってくれたのかもしれない。その後、何度かおじいちゃんと意見の相違を感じたことはあったものの、それ以上に相手を知ったことで許せる範囲が広がったとでもいうのだろうか。家族のように、それを受け入れられる度量が少しは備わったように思う。それからは薄い壁の向こうから聞こえてくるおじいちゃんのいびきが、安否確認の役割を果たすようになったのだった。

 おじいちゃんとのその後だが、帰国後はお互いに機会があれば会うし、そしてこりもせず同じ内容で、相変わらずの持論を展開してくれるがそれもまた懐かしい。きっと一生こんな感じで付き合っていける仲間であることは間違いないだろう。