P215
実は彼らはそうやってずっと、社会から「排除」され続けてきているのかもしれない。
どこに行っても「自己責任」という言葉のもとで真っ先に社会から排除されかねない彼ら。市役所などへの同行支援をし、事例を重ねていく中でその冷たさを私も実感していた。
P218
私自身の子どもが「生まれた子どもになんら縁もゆかりもないはずの“前夫”の名前でなければ、戸籍は作れない」と言われたときは衝撃だった。しかし「誰かはわかってくれるはず」「助けてくれるのではないか」と、藁にもすがる思いで飛び込んだ先の市役所の対応は容赦なかった。
「登録されなければ、国にとっても市にとっても『存在しない子』なんです」
存在しない子!?
子どもを目の前に、市役所の職員から言われたこの言葉を私は忘れることができない。
「この子はここにいます。誰が否定しても、ここにいます!」
「存在しない子」なんていない。
戸籍がなくたって、どの子も確かに「生きている」のに。
情けなくて涙が出た。それはこの発言をした市役所の職員も決して「悪気」があって言ったことではないのがわかるからだ。
なんの邪気もなく思ったことを口にする。法律に従って善き社会人であろうとする中で、冷酷な本音がこぼれ落ちる。その言葉の奥には、彼らが常識と思っている「あるべき姿」がある。
「あるべき家族」「あるべき女性」……。
「その『あるべき』から少しでもはみ出しているのだから、あなたたちはなんらかの罰や痛みを受けても、それは仕方がないのだ」
彼らは素直にそう思い込んでいる。
無意識の中に持つ、偏見や蔑み。そうした「善意の」加害者に出会うたびに、実はそれは自分の姿でもあると気がつく。
生きる中で、私たちは知らず知らずのうちに、「あるべき」を強要してしまっている。他人に対して、地域コミュニティに対して、また社会に対してもだ。
いつしか染みついたそうした偏狭な価値観が、あらゆるところで弱い立場の人々を追い込んでいるのではないかと思う。
また、親の「あるべき姿」を、無戸籍者当人に説いたところで、解決には至らない。しかし、無戸籍者たちは何度もこうした目に遭っている。
それは、少し立ち位置を変えてみればわかる話だ。そこに思いが至らないのは「善意の」加害者たちの多くが、誰かに、何かに、「守られて」生きてきたからだと思う。
それは自分の努力によるものではなく、「たまたま」という要因のほうが強いはずだ。当然のこととして享受してきた、一定の恵まれた状況があるからこそ、違う立場の人への思いが至らないのだ。「だからこそ」やっかいなのである。
もし、である。もし彼らにそうした「あと一歩」の気遣い、そして想像力があれば、もしかすると無戸籍者たちが直面する厳しい状況のいくつかは解決しているに違いない、と思う。
P222
「それも『離婚のリスク』です」と、さらりと返された。
「女性は『離婚後300日以内』に子どもが生まれるリスクがある。男性たちは何もしなくとも、離婚したあとも他人の子が自分の子になるリスクがある。つまりどちらにとってもそれは『離婚』を決断した以上、受け入れなければならないリスクなんです」
あまりの言葉に愕然とした。
そもそも現在、どういう事情であれ、離婚は当人たちの意思で(場合により調停・裁判で)できること。当人たちや子どもが傷ついたり傷つけたりという愛憎はあったとしても、それは個人間の話。離婚自体が社会的に「悪いこと」ではないはずだ。
なのにその当事者や子どもに法が「リスク」を負わせて当然と語るのは一片の根拠もない。しかしその窓口の人は単純に「離婚は悪」、「あえてするなら甘んじて罰を受けるベし」と思い込んでいるのだろう。
「善意の」加害者との会話はすれ違い続ける。それは、決して交わることがないような無力感に襲われる。