P78
こうした二つの町の住民気質の差異を確かめたいと思い、アンケート調査に加えたのが以下の質問項目である。
「あなたは悩みやストレスを抱えたときに、誰かに相談したり助けを求めたりすることを恥ずかしいと思いますか?」
これに対し否定の回答、つまり「助けを求めることを恥ずかしいと思わない」と回答した人の比率は、海部町で62.8パーセント、自殺多発地域であるA町で47.3パーセントであり、海部町では援助を求める行為への心理的抵抗がより小さいことが示されている(表5)。
さらにこのアンケート調査では、「どうしようもない困難に遭った人は自殺をしてもやむをえない」という考えをどれだけ許容するか――いわゆる「自殺許容度」を測るための質問があった。この項目を使って分析した結果、自殺許容度が高い人ほど援助を求めることへの抵抗が強い、つまりなかなか助けてくれと言えないという関係が示されていた。
これは非常に悩ましい事態である。自殺対策にたずさわる側としては、自殺許容度がもともと高い人こそ、悩みや苦しみを抱えたときにはなるべく早く助けを求めてほしいのに、実際はその逆の傾向が示されている。
P81
海部町住民のうつに関する意識を垣間見るのに、このようなことがあった。私は、60歳〜80歳代の女性たち7、8名からなるグループへのインタビューを行っていた。この日もまた話は本題から徐々にそれて、にぎやかな井戸端会議状態となりつつあった。そのとき、ひとりの女性が「そういや、よ」と周りを見回し、「知っとる?○○さんな、うつになっとんじぇ」と切り出した。
これを聞いた途端、残りの女性たちは一斉に、「ほな、見にいてやらないかん!」「行てやらないかんな!」と異口同音に言った。うつになったその隣人を、見舞いに行ってやらねば、と言っているのである。
傍で聞いていた私は、彼女たちの反応が非常に面白かった。
まず感じたのは、この人たちは、うつになったという隣人に対しそんなふうに接するのかという、ちょっと新鮮な驚き。どうやら、当事者を遠巻きにしたりそっとしておいてあげようという発想はあまりないらしい。さっさと押しかけていくのだ。
もうひとつ興味深かったのは、彼女たちの「行てやらないかん!」という意思表明が、打てば響くようにほぼ同時に発せられたということだった。あなたはどうするの、お見舞いに行く?あなたが行ーならわたしも一緒に行こうかな。私の周囲でよく見られるこうしたやり取りが、ここでは一切省略されていたのである。
「あんた、うつになっとんと違うん」と、隣人に対し面と向かって指摘する海部町の話を他の地域で紹介すると、いつも小さなどよめきが起こる。特に自殺多発地域であるA町での反応は大きかった。うつに対し偏見の強いこの地域では、うつについてオープンに話し合うような状況はほとんどなく、まして本人に直接指摘することなどありえないという。
「ほないなこと、言うてもええんじゃねえ」。A町在住のあるお年寄りは目を丸くしていた。その言葉は明らかにひとりごとだったので、私もあえて取り上げないでいた。少し眺めていると、彼女はもう一度、まったく同じことをつぶやいた。
ほないなこと、言うてもええんじゃねえ。
P181
分析結果を見ると、「幸せ」と感じている人の比率は海部町が三町の中でもっとも低い一方で、「幸せでも不幸せでもない」と感じている人の比率はもっとも高い。また、「不幸せ」と感じている人の比率は三町中もっとも低かった。
P185
私はこの幸福度に関する調査結果――海部町は周辺地域で「幸せ」な人がもっとも少なく、「幸せでも不幸せでもない」人がもっとも多い――という結果を示して、海部町の住民や関係者たちに感想を聞いて回った。興味深かったのは、海部町民自身がこの結果をすんなりと受け入れ、さほど意外とも思っていない様子だったことである。
「ほれが(幸せでも不幸せでもないという状態が)自分にとって一番ちょうどええと、思とんのとちゃいますか」そう言った人がいた。“ちょうどいい”とは、分相応という意味でしょうかと私が尋ねると、その人は少し考えたのちに、「それが一番心地がええ、とでもゆうか」と言い足した。同じようなことを言った人が、ほかにも数人いた。
なるほど。この人たちの言いたいことがきぼんやりとであるが伝わってきた。
「不幸せ」という状況に陥りたくない人は多いだろうが、では「幸せ」ならよいのかというと、考えようによってはさほど結構な状況でもないのかもしれない。「幸せでも不幸せでもない」という状況にとどまっていれば、少なくとも幸せな状態から転落する不安におびえることもない。そういうことを、この人は言いたいのかもしれないと思った。
幸福感というのは客観的な指標ではなく、その人の極めて主観的な観念であり、同時にそれは、相対的な評価でもある。
相対的評価という言葉の意味であるが、人は通常、自分が幸福かどうかを判断するときになんらかの”物差し”を使う。幸せというものはこれこれの条件が満たされている場合を指す、といった漠然とした基準が人それぞれにあり、これに当てはまっているかどうかを自己判断する。世間や他者と比較して自分を測るという行為であり、つまり、比較対照する世間や他者の状況に応じて自分の幸福度もまた上がり下がりする。このように考えていくと、「幸せでも不幸せでもない」状態とは、その判断基軸をあちこちに動かされることなく、案外のどかな気分でいられる場ともいえるかもしれないのである。
さらにいえば、「不幸でない」ことに、より重要な意味があるとも感じる。「幸せであること」より「不幸でないこと」が重要と、まるで禅問答のようでもあるが、海部町コミュニティが心がけてきた危機管理術では、「大変幸福というわけにはいかないかもしれないが、決して不幸ではない」という弾力性の高い範囲設定があり、その範囲からはみ出る人――つまり、極端に不幸を感じる人を作らないようにしているようにも見える。
この考えを海部町のある男性に話したところ、彼は自分の膝を叩くようにして、「ほれ、そこがこの町のいかん(駄目な)ところや」と大きな声を出した。男性は、「そこそこでええわ、と思ってしまう。ほやからこの町には大して立身出世するもんがおらん」と嘆いた。もちろんいないわけなどない、現実には大勢の人が立派に出世しているのだが、彼の言わんとすることは理解できる気がする。私も薄々気づいていたのだが、海部町の人々には執着心というものがあまり感じられない。艱難辛苦を乗り越えてでも、という姿をイメージしにくいのである。
住民幸福度に関する調査結果をふまえて、私なりの考察をいろいろと述べてきたが、何をもって幸せと定義するかは人によって千差万別である。人の幸せというものが数量的な分析にそぐわないという限界があることを、言い添えておきたい。この「幸せでも不幸せでもない」という回答を選んだ根拠もまた、人によってさまざまなのだろう。幸せとは言いきれない、かといって不幸せでもない、消去法による選択であった可能性も高い。そもそも日本人は、「どちらでもない」「まあまあ」「ふつう」といった中間値を選ぶ傾向が他国に比べて非常に強いとされている。