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功利主義
まず注意が必要なのは、ここでいう功利主義とは、もっぱら自分の個人的な功績や利益の追求を第一とする利己主義とは全然ちがうということだ。むしろ、それは共同体の集団的な価値の最大化をめざしている。「最大幸福」というのは、共同体メンバーの幸福度の総和といった意味にほかならない。
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これは、ある政策をとることが集団にたいして結果的にもたらす便益つまりプラス効果と、そのために必要な費用(コスト)を分析し、その比率を最大にするのが正しい選択だ、という考え方である。
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しかし、功利主義にかかわる第二の点は、倫理として致命的な欠陥となりうる。それは、功利主義が個人の権利や利害ではなくあくまで集団の利害を優先させる、ということだ。むろん、功利主義自体は集団の意思決定ばかりではなく、個人の意思決定にかかわる基準にもなるのだが、そのときも個人は自分の属する集団の利害を優先させるのである。したがって、個人が犠牲になることも無いではない。
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自由平等主義
カントの倫理思想は義務論である。選択肢のいずれかを選ぶとき、それが事後にもたらす結果より、決定する時点で主体が「こうすべきだ」という内発的な意図や義務感が大切なのだ。逆にいえば、意図さえ正しければ、実際の選択の結果、仮に不都合がおこっても仕方がないということにもなる。
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カントにとって、人格をもつ個人は特別な存在に他ならない。なぜなら、個々の人間は理性をもっており、合理的に選択肢それぞれの価値を比較し、正しく判断することのできる「道徳的主体(moral agent)」であるからだ。
人間を「理性をもつ特別な存在」とみなす思想の淵源はキリスト教とギリシア哲学であり、人間のはるか上位には絶対的な秩序(ロゴス)をもつ神が君臨している。そして動植物はその下位階層に位置づけられる。カントの思想は、この伝統的な秩序概念を近代的に組み立て直したものといってよい。だが基本的人権は、欧米のキリスト教国のみならず、今や大半の国々でみとめられつつあり、その意味ではグローバルな倫理思想になっているのだ。日本でも、いわゆるリベラリストの多くはこういう考え方にしたがっている。
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自由至上主義
自由至上主義者はリバタリアンと呼ばれるが、その鼻祖は、カントより100年ほど前に経験論哲学をとなえたジョン・ロックである。ロックは王権を否定し個人の平等性を重視した点で近代主義者といえるが、とくに個人の「所有」の概念を重要視した。つまり、王様だとか国家といった公権力が、勝手に個人の財産権をおかしてはならない、ということだ。むろん、個人は安全に生活するために消防とか警察といったサービスを公権力から受け、その対価を税金として支払うのだが、それは基本的に自分の所有する財貨を守ってもらうためなのである。公権力はそれ以外の点では個人への干渉を抑え、あくまで自由を尊重しなくてはならない。
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……においては、公平な市場活動によって個人がえた財貨の所有権(処分権)が絶対のものとされる。したがって、リバタリアンは累進課税に反対する。個人が努力をかさね公正・な市場活動をつうじてえた財貨が多いからといって、なぜ過大な税金をむしりとられるのか。リバタリアンにとって、国家をはじめとする共同体の主目的は、個人の安全や公正な市場の確保に限られるのである。
自由至上主義のもとでは、当然ながら経済格差が生じる。リバタリアンはむろん個人
の基本的人権を尊重するが、経済格差は公正な競争の結果だから自助努力によって解決すべきだと考える。ここは自由平等主義との顕著な違いだ。リベラリストは、経済格差は人種差別など各種の要因によっても生じるので、公権力が介入して格差を是正する福利政策が望ましいと見なす。さもなければ、経済的な下流階層に属する個人は事実上、教育や医療などのサービスを受けられず、基本的権利を侵害されるというわけだ。具体的には、入試や就職において一部の人種を優遇したり、累進課税を実施して下流階層にもベーシック・インカムを保証したりする選択がリベラリストの正義だということになる。
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したがってリバタリアンは売春を個人の商行為として認めるが、リベラリストは反倫理的行為として却下するのである。
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共同体主義
だがここで、20世紀末になってあらたに、個人の属する集団の伝統的な共通善に注目する倫理思想が登場したことを忘れてはならない。この共同体主義を主張するコミュニタリアンの代表は、日本でも人気の高いマイケル・サンデルである。ロールズやノージックと同じく、サンデルも米国ハーバード大学に所属する公共哲学者であるのは興味深い。
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自由至上主義は個人の自由を尊重しているといいながら、事実上、富裕な人々の権利だけを守っているのではないか。貧しい人々の権利などほとんど無視されていると言えなくもない。お金持ちなら腎臓を売る必要はないし、売春もしないだろう。たしかに強制ではなく契約にもとついた商行為のように見えるが、貧しい人々はやむをえず、自由や権利の一部を切り売りして生きているのが現状だ。高等教育もうけられず人脈もなければ、経済的格差を克服することは容易ではない。恵まれない人々への慈悲を重んじる伝統的な道徳や正義の観念からすると、自由至上主義の倫理思想に共感することは直観的に難しいのである。
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ここで注目すべきは、徳目が自他の権利尊重という法制化しやすい客観的社会関係というより、むしろ、個人の内面のありかたに焦点をあわせていることだ。実際に選択される行為は内面的道徳観の表れと見なされるのである。
サンデルらの主張する近代的な共同体主義は、むろんそんなものではない。近代社会の制度やルールを尊重した上で、共通善という美学を再評価する試みといえる。つまり、基本的人権の思想をふまえつつ、具体的な選択の場面において伝統的道徳観からの考察を加味した実践をおこなう、といったものになるだろう。
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情報倫理・コンピュータ倫理
とりわけ、近年のインターネットやスマートフォンの爆発的な普及にともなう社会的テーマが問われることが多い。それらは、上述の功利主義、自由平等主義、自由至上主義、共同体主義のいずれの観点から議論されているのだろうか。
今や、われわれの消費行動は大半がインターネットのなかに記憶され、個人のプロフィールも丸裸にされつつある。
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功利主義からすると、肯定的なとらえ方ができるだろう。個人は自分の趣味や特性におうじた品物やサービスを効率的に手にいれることができる。それぞれの満足度は増すはずだ。さらにそれは集団としての経済活動を活性化し、富を増大させることにもなる。
だが、自由平等主義からすれば、かならずしも肯定することはできない。そこでは個人の自由な購買意思を尊重するというより、洗脳して売りつけるという傾向が目立つ。つまり、人間というものを、ただ利潤をえるための「手段」とみなしているのだ。自分で自らの生活を自由に設計していくためのプライバシーも守られていない。
一方、同じ自由主義でも、自由至上主義からは別の倫理的判断があらわれる。購買する個人は、単に商品やサービスについて供給者側からデータを提供されるだけで、最終的な決定権はあくまで消費者側にあり、購買を拒否することもできる。自分の特性データを供給者側に把握されることに関しても、それを拒否する方法や権限さえあれば、かならずしも悪いことではない。要するに、個人情報の収集とビジネス利用は、個人の自由を奪うというより、選択の幅を拡大するはたらきをもっている。だから肯定的な評価がくだされるだろう。
しかし、共同体主義からは逆に否定的な倫理的判断があらわれる。個人情報収集とビジネス利用のできる供給者は地域の多数の中小企業ではなく、国際規模の寡占企業である。それは富の独占をはかる。つまり、共同体でおもに対面でおこなわれていた伝統的な商業サービス活動は致命的な打撃をうけるだろう。共同体の経済的存立そのものが脅かされる恐れがあるのだ。
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少なくとも現在、AIという言葉から、単なるコンピュータの応用技術の一部ではなく、「人間と同じ、いや人間を超えるような知性をもつ存在」というイメージが社会のなかに広まりつつあることは紛れもない事実だろう。肝心なのは、AI技術が用いられるとき、そこに「AIが疑似的な人格をもつ」という観念ないし幻想が滑り込んでくる、という点なのだ。
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要するに、「人格」という、道徳的判断をくだす主体が、近代倫理思想を組み立てる根幹をなしている。では、仮にそこにAIという疑似人格が導入されたとすると、いったい何がおきるのだろうか。
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AIロボットはしばしば「自律型機械(autonomous machine)」と見なされる。AIロボットは自分で自分の行動を律しているように見えるので、そう形容されるのである。それなら、自律型機械は道徳的主体といえるのか。疑似人格として扱い、責任をとらせることができるのか。実際には機械に罰金をはらわせたり、刑務所にいれたりできないとすれば、いったい何が起きるのか。被害者は泣き寝入りさせられるのか。――こういった問題が、AI倫理における最大の焦点となってくるのである。