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実際、以前に行われた研究と、最近の研究で比べると、遺伝要因の関与は徐々に下がってきている。たとえば、ADHDでは、以前は八割程度の遺伝率があるとされてきたが、最近の研究では、六割〜七割五分と低い値が示されており、それよりも小さい結果も出ている。ことに大人のADHDでは、遺伝要因の関与は三〜四割という報告もある。
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科学研究の世界も不思議なもので、ある方向に流れが向かい出すと、それと辻褄が合う研究結果が次々と出て、それを“定説”にまつり上げるということが起きる。
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先に触れたスタンフォード大学の研究が、いかにインパクトをもち、複雑な波紋を投げかけたかは、そうしたことを念頭におくと、いっそう意味深長であろう。遺伝率が七〜八割という従来の定説を覆して四割以下でしかないと報告することは、相当勇気のいることであるし、同時に相当自信がないとできないことである。そこには研究者としての生命がかかっているからだ。こうした研究結果が出るということは、逆に言えば、時代を支配する空気が大きく変わり始めているということである。
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こうした認識を後押しすることになったのが、遺伝子が存在しても、それが発現するかしないかは、環境次第であるということが広く理解されるようになったことである。
ある遺伝子の発現は、その遺伝子のDNAにくっついて存在するプロモーターという領域によって調整されているが、このプロモーターのスイッチが入るかどうかは、環境からの刺激やストレスによって決まるのである。プロモーターのスイッチが入ると、その遺伝子のDNAは、RNAに転写され、RNAからタンパク質が作られ、それが酵素や受容体となって遺伝子が発現する。
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たとえば、ADHDのリスク遺伝子として、ドーパミンD4受容体遺伝子の反復配列が長い変異が知られている。この変異をもつ人は全人口に一割程度はいるので、変異(ミューテーション)というよりも、多型(ヴァリエーション)と呼んだ方が適切である。血液型と同じようなヴァリエーションの一つであり、どちらが異常とか正常とかいうものではなく、特性の違うタイプなのである。このタイプの多型をもつ人では、新奇性探究といって、新しいものに好奇心が強く、それを求めて活発に行動する傾向が強い。自分の思うように行動しようとする傾向も強いので、「言うことを聞かない」ということが起きがちで、育てにくい。
しかし、この遺伝子多型をもっていたからといって必ずしもADHDになるわけではなく、共感的な養育が行われた場合には、行動の問題が増えたり親子関係が不安定になったりすることもない(Bakermans-Kranenburg et al.,2008他)。活発で注意が移ろいやすいという傾向があったとしても、むしろそれは冒険心や進取の気性として有利な特性となり得るのである。
ところが、このタイプの特性を理解せずに、親の期待することを無理強いしたり、厳しく罰したりすると、どんどん行動の問題を悪化させ、反抗的で手が付けられなくなってしまう。
その意味で、この遺伝子多型の持ち主は、いい方向にも悪い方向にも養育環境の影響を受けやすいと言える。
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実際、軽症のケースほど、遺伝要因よりも環境要因の関与が強いケースが多くなるからだ。「発達障害」という診断が安易に拡大し過ぎたことによる弊害が起きていると言える。
以下本書では、軽症のものまで幅広く適用されている、いわゆる「発達障害」を表すときは、鉤括弧をつけ、本来の発達障害の意味で用いる場合には、鉤括弧なしで表すこととする。