P84
創業家は、株式の売却代金(100億円)を原資に、大王製紙の子会社からの借金とカジノの未清算金の弁済を行った。
父親である高雄が、不肖の息子がつくった莫大な借金を尻拭いしたわけだ。その結果、すべての株式を処分して、創業家は三代にわたり支配してきた大王の支配権を失った。創業家はグループ企業の役員も2012年8月15日付で一斉に退いた。
和解の条件として、高雄は大王の顧問に一蒔、復帰したが、2014年、再び解任された。
意高は「売り家と唐様で書く三代目」、そのままであった。
P206
まったく無力化した父親、姉妹すべてを愛人にされた家庭、抵抗しようにも、財政のすべてを握られている。こういう状況下で操は、ある決心をする。自らは子供のできない体にしたうえで、こう言い放ったという。〈「姉と妹は手離して下さい。そのかわり私が子供を引き取って育てます」。操が身をまかせたのは鎌倉の腰越の別荘でした。おわかりでしょう。姉の子が清二さん、妹の子が邦子さんなのです〉(前掲誌)
操の父・青山芳三は割腹自殺を遂げた。康次郎から青山家が受けた仕打ちを、操は一生忘れなかった。康次郎に復讐するために正妻の座を手に入れた操は、青山家の血を引く清二を後継者にしようとした。清二と邦子は生まれたときは青山姓を名乗っていた。
そこに強敵が現れる。石塚恒子である。父親の石塚三郎は、康次郎と代議士の同期。康次郎が娘に手をつけたことを知った石塚は「堤と刺し違えてやる」と激怒した。やがて、義明、康弘、猶二が生まれたが、恒子は正妻にはなっていない。西武王国の王位継承者・義明の結婚式に恒子は招かれなかった。これが恒子・義明親子の最大の遺恨になる。複雑な家族関係の中で、「親子の絆」を保ち続けたのは、恒子・義明の親子だけだった、といえるかもしれない。
P207
「堤家の永遠の繁栄」を第一に考えた康次郎は、相続による株式の散逸や相続税の支払いを逃れるため、親会社にあたるコクド株を役員や幹部名義を使って保有した。康次郎の死後、後継者の義明が資産のすべてを引き継いだ。だが、「義明はあくまで財産の”管理人”であって、義明名義のコクド株のうち、約五五%は自分たちが相続している(はず)」と異母兄弟たちは主張して裁判に持ち込んだ。
2009年3月30日、東京地裁は、堤清二ら親族四人の一部持ち分を認めた。義明名義の旧コクド(プリンスホテルに吸収合併)株757株のうち、約740株は時効成立により、義明のものと判断。残る約15株分のおよそ55%については原告の持ち分と認めた。
原告の主張が全面的に認められれぼ、2005年から2006年にかけて行われた西武鉄道グループの再編が無効になる可能性があったわけだが、最大の焦点となっていた名義偽装は時効の壁に阻まれてしまった。
異母兄弟姉妹の複雑な家族関係が深い傷を残さないわけがない。一族は分裂。西武グループの堤家支配は崩壊した。康次郎が描いた王国の青写真によれば、未上場のコクドが上場会社の西武鉄道株式を大量に保有、そのコクド株を堤義明個人が保有するという支配の二重構造を完成させ、末代まで堤家の支配は磐石なはずだった。
P223
昌男は「郵政民営化」に政治生命を賭けた小泉純一郎元首相の、民間で最強のパートナーでもあった。
2005年6月30日、昌男は米国ロサンゼルスの長女の家で80歳で亡くなった。
昌男という絶対的な求心力を失ったヤマトでは、長男・康嗣の処遇をめぐる派閥抗争が勃発した。2005年11月、持ち株会社ヤマトHDに移行する際に、関東支社長の康嗣のトップ昇格が有力視されたが、派閥抗争が激化し社内は大混乱。”大番頭”の有富慶二が暫定的に会長兼社長に就任してこれを収拾した。有富は1997〜2003年に五代目の社長をやり、2005年に第七代社長になり、二度社長のポストに就いている。
このときの人事で、康嗣は持ち株会社の取締役に就き、事業子会社となったヤマト運輸の社長に就任した。だが、2006年六月にヤマトHD取締役を外れた。2007年3月には取締役会に出席できない専務執行役員となり、中核子会社のヤマト運輸社長の座も追われた。「2007年10月に民営化される日本郵政公社と渡り合っていくには、康嗣では力不足」(ヤマト運輸の元役員)と判断されたのだろう。留学を名目に遭放”されたのである。
P258
岡野家のファミリー企業が所有し、スルガ銀行の東京支店が入居する東京・日本橋のビルは大手デベロッパーに売却する。
スルガ銀行から創業家のファミリー企業が融資を受けていた450億の返済が滞っていた。創業家はスルガ銀行株式や不動産の売却で得た資金を原資にスルガ銀に融資を返済する。
P279
1905年1月、三越呉服店は主要新聞に全面広告を掲載し、日本初のデパートメント・ストアを宣言した。わが国の百貨店の歴史は、ここから始まる。
日比翁助は、それまでの座売り方式から陳列方式に変えた。経理も大福帳から複式簿記に変更した。日本初のエスカレーターの設置、「今日は帝劇、明日は三越」といった巧みな広告や販売促進によって、三越は新興の金持ちの顧客を呼び込むことに成功。日比翁助は日本における近代百貨店の祖となった。
P345
薄は早くから引退を宣言していたが、引退は先送りされてきた。後継者に恵まれなかったからだ。後継者と目されていたのが、娘婿の荒川實だった。荒川は京都大学から米マサチューセッツ工科大学を出た丸紅の商社マン。任天堂の米国進出にあたり、初期のファミコン時代からかかわり、家庭用ゲーム機を米国に普及させた功労者だ。イチローが活躍するマリナーズを任天堂が買収したとき、中心になって動いたのが荒川だ。
ところが薄は「彼は任天堂の社長には向かない」と、後継者と目されていた荒川を解任してしまう。米国での荒川の実績は申し分なかったが、倒産の危機を経験して借金することの惨めさを体の隅々まで叩き込まれた搏は、多額の資金を使って市場を開拓する荒川とは根本的な考え方が違ったというのが理由だ。任天堂、最大の謎とされる事件だ。
P347
世界企業への道を訊かれると溝は「ファミコンを出すときも、いろいろ迷ったわけではなく、それしかなかったから。米国進出だって、成算があったわけではない。要するに、任天堂は運がよかっただけです」と答えた、謙遜しているのかと思えば、さにあらず。「運を実力だと錯覚するような経営者は愚かだ」という過激な言葉が飛び出すところからみると、運・オールマイティー論者でもない。「俺の経営がうまかったから成功した」と思うような経営者は、早晩、墓穴を掘ることになるという警句は、自分自身に向けられたものだった。
P527
渡邉は、なぜ、こんなに社会から批難を浴びせられるのか、その根本原因がわからなかったのではないか。渡邊の社員・従業員に対する期待は、常に「これ以上やったら鼻血が出て倒れるというところの、もうちょっと上」に設定され、それに向かって走れといっている。渡邉自身の人生が凝縮された言葉だから、自分の発言を否定することは、自らの人生を否定することになる。
「頑張る」という言葉の意味も、それこそ人さまざまということが渡邉には理解できなかった。今でも理解できていないのかもしれない。渡邉は行く先々で摩擦を起こした。渡邊はブラック批判に対して「ふざけるなという思いだ」と本音で語ったことがある。強気な姿勢は今も変わらない。
P529
16年三月期決算で債務超過に転落するのを避けるためには、黒字転換が経営陣の絶対条件となった。そこで介護事業の売却が浮上し、子会社、ワタミの介護やメガソーラー事業の売却益で78億円の最終黒字に黒字転落した。
介護事業の売却は、創業者である渡邉美樹が立てたビジネスモデルが瓦解したことを意味した。「居酒屋から脱却し高齢者向けのビジネスモデルに転換を図る」と考えていたからだ。
成長の柱に据えたのが高齢者向けの弁当宅配(宅食)と介護事業。居酒屋に代わる主力事業に育てる方針を打ち出した。
介護事業は「レストヴィラ」の名称で有料老人ホームを首都圏111施設展開。九棟を新設したことから、15年3月期の介護事業の売り上げは354億円、営業利益は24億円の黒字だった。
15年末に介護事業の「ワタミの介護」を151億円で損保ジャパン日本興亜ホールディングス(現.SOMPOホールディングス傘下)に売却した。