買換特例についての調査義務が問題になった事例

● 買換特例についての調査義務が問題になった事例

 Y税理士は、建物の譲渡所得を申告するについて、実際の購入価格を取得価額とする譲渡所得の計算をした。しかし、譲渡した建物は買換特例を受けて購入したものだったため、取得価格は圧縮されており、そのため譲渡所得について修正申告書の提出が必要になった。

 納税者は、「税理士には、仮に、納税者から過去の申告書類等の提示を受けなくても、疑問があれば課税庁に赴くなどして申告歴を調べる義務があり、また、譲渡物件について注意すべきは過去に買換特例の対象になったか否かである」と主張し、税理士に善管注意義務違反があったと主張した。

 これに対し税理士は次のように反論した。納税者からは過年度の申告書等の交付がなく、買換特例の適用を受けていたことを把握できなかった。課税庁は過去の申告書を閲覧、提示することを事実上拒否しており、税理士が納税者の過去の申告書の閲覧、謄写を求めなかったことに職務上の怠慢はない。

 Y税理士はこのように反論し、納税者との間で締結された委嘱契約書を証拠として提出した。委嘱契約書には「委嘱事案の処理に必要な書類、帳簿及びその他の資料は、甲(委嘱者)において一切取り揃えるものとする。これらの資料の不備に基因して生じる委嘱事実の瑕疵は甲(委嘱者)の責任である」との記載があった。

● 裁判所の判断手法

 裁判所は真実を発見し、それに基づいて判断する。これが裁判についての一般の理解だと思うのだが、ここには大きな誤解がある。判決は、それを作成するための技術によって作り出されている。

 判決作成の技術は「要件事実」と言われるもので、司法研修所は2年間、将来の弁護士、裁判官に対して要件事実を中心とした教育を行う。貸金請求に例えれば、融資の事実と利息の約定を主張立証するのが貸主の義務であり、弁済期限が到来していないとの事実、あるいは返済の事実を立証する責任を負うのが借主ということになる。

 従って、貸主は借用書を証拠として提出し、借主は返済金の領収書を証拠として提出する。領収書を紛失してしまえば、他の証拠で返済の事実を立証しない限り、借主は二重弁済の損失を被ることになる。貸主には返済を受けていないとの事実を立証する義務はない。この立証責任の分配が要件事実というわけである。

 ただ、このような判決作成の技術も、予定しない事象、例えば偽造書面などが証拠として提出されると機能不全を起こしてしまう。登記の抹消に使用するからと言われて白紙に署名押印したところ、それが贈与契約書として作成されてしまったような場合である。

 署名者が、その署名と押印が自分のものであることを認めると、贈与契約書は署名者の意思によって真正に作成されたものと推定されてしまう。その結果、署名者は、贈与契約書が偽造書面であることを立証する責任を負うことになり、これが立証できなければ、裁判所は、贈与契約を真実のものと判断してしまう。

 しかし、偽造行為に大きなミスでもない限り、偽造に関与しない署名者が、密室で行われた偽造を立証することは探偵小説ほど簡単ではない。場合によっては、悪い者が勝訴してしまうのが裁判なのである。

● 地裁判決では敗訴し、高裁では勝訴した

 地裁判決は税理士を敗訴させ、高裁判決は税理士を勝訴させた。まず、地裁判決から検討してみよう。

 地裁判決は、税理士の職務について税理士法1条を引用したうえ、「依頼者の説明だけでは十分に事実関係を把握できない場合には、課税庁で当該疑問点を指摘し、調査を尽くさなければならない」と説示し、委嘱契約書によって調査義務が軽減されていたとの税理士の主張を排斥した。

 課税庁が過去の申告書の閲覧を拒否していたとの税理士の主張については、「証拠《たぶん、税務署からの回答書・筆者注》によれば、過年度の納税者の申告書類に税務職員が書き込みなどを行い、右書類に行政上の秘密事項が記載され、閲覧を許すことが、課税職員の守秘義務に抵触する場合を除き、税務職員は、税理士に対し、その依頼者についての過年度の申告書類の閲覧を許していることが認められる」と、これも排斥した。

 そして、買換特例の前歴を調査する義務については、「証拠《たぶん、税理士の証言・筆者注》によれば、譲渡所得を申告する際に注意を払うべき点は、買換特例の適用の可否であること、譲渡物件の取得価額を検討する際に注意を払うべき点は、譲渡物件の取得の経緯、過去に買換特例の対象になったか否かであることが認められ」と判示し、この点についての調査を怠った税理士に善管注意義務の違背があると判断した。

 しかし、高裁判決は税理士を逆転勝訴させた。「以前に不動産を譲渡したことがあるかどうかを控訴人(納税者)に尋ねたところ、譲渡したことはないとの返事であり………既に買換特例の適用を受けていたことを窺わせるような事情が存在したことを認めるに足りる証拠はな」い。だから、税理士には調査義務違反がなかったとの判断である。

● 訴訟における主張と立証

 地裁と高裁で判決が逆転するのが訴訟の面白さであり、怖さでもある。

 まず、委嘱契約書が税理士を免責しないことについては争いがないだろう。これは手術の際に医者に差し入れる書面と同様であり、このような免責書面の効力を認めたのでは専門家の存在意義がなくなってしまう。

 では次に、税務署は、納税者あるいは納税者から委任を受けた税理士に過年度の申告書の閲覧を認めていただろうか。裁判所が税務署に照会した結果は判決が引用する通りだが、私の経験では、大部分の税務署は申告書の閲覧を認めていなかったのではないかと思う。提出された申告書は公文書になるので、閲覧は認められないとの回答を得たことは1度や2度の経験ではない。

 さて、この場合に、裁判所はどのような判断をするだろうか。片方には閲覧を認めていたとの国が作成した回答書面があり、他方には閲覧を認めていなかったとの税理士の主張がある。仮に、同業者を証人として閲覧が拒否された事例を証言させたところで、国が作成した書面が嘘だと裁判所に判示させることは相当に困難だろう。特に、裁判所には、当事者(と当事者が申請した証人)の証言よりも、公務員の証言(証拠)を肯定する一般的傾向があることを考えればなおさらである。

 次に、譲渡資産の購入の経過までも調べるのが譲渡所得の申告の実務だっただろうか。確かに、納税者から買換特例を受けていた旨の説明を受ければ、それを調べるのが税理士の義務である。しかし、そのような説明を受けない場合についてまで、譲渡所得を申告するに際して「過去に買換特例の対象になったか否か」との調査をするだろうか。

 ただ、譲渡資産の購入の経過など調べる手間をかけないのが実務だったとしても、この点について本音の証言をしてくれる税理士を見つけることは難しい。これが見つけられなければ、証拠として裁判所に提出されるのは「譲渡所得を申告する際に注意を払うべき点は………」との証言しかない。

 高裁での逆転判決は、税理士の実務からみれば常識と思えるのだが、しかし、裁判の常識からすれば稀な幸運である。日々、多数の判決が言い渡されているが、高裁で逆転という判決は、それほど多くはない。

● 判決から学ぶべき2つの教訓

 税理士に限らず、一般の社会の判断基準は「経験から学んだ社会常識」ではないだろうか。しかし、裁判所の判断基準は、社会常識というような牧歌的なものではなく、「要件事実」を満たしているか否かである。教訓の一つ目は、社会常識だけでは勝てないのが裁判だということである。

 教訓の二つ目は、どんなに明白な事実であっても、法廷で立証できなければ、訴訟においては無価値だということである。逆に言えば、間違った事実でも、相手が反論できなければ裁判所では真実になる。署名押印をした書面が偽造されたような場合である。

 地裁の判決も、又、高裁の判決も、それなりの説得力があるが、しかし、反対の結論を出せるのが裁判なのである。判決の結論は分からないというのが弁護士間での一致した訴訟感である。


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