相続時精算課税制度が遺産相続に与える影響
相続時精算課税制度は、相続税の問題ではなく、民法上の相続制度に大きな影響を与える。生前の遺産分割を可能にし、債権者対策の資産の処分を容易にし、相続放棄に優先する手段を提供する。相続時精算課税制度は、税理士ではなく、弁護士にとって必須の知識かもしれない。
本年度の相続税法の改正によって相続時精算課税制度が導入された。この制度を利用する場合の相続税法上のメリットとデメリットは別の解説に譲るとして、ここでは相続時精算課税と相続との関係について検討してみたい。なぜなら、相続時精算課税制度は、相続税の問題ではなく、相続に大きな影響を与える制度だと思えるからである。
相続についての第1の対策は遺言書の作成であり、遺言書を作成する以外の対策は存在しないのが相続対策である。このため相続について相談を受けた弁護士は依頼者に対し遺言書の作成をアドバイスすることになる。そして、弁護士であれば、遺言書が作成してあればと悔しい思いをした事件と、遺言書を作られてしまったとの悔しい思いをした事件をいくつも扱っている。
しかし、悔しい思いをするのが遺言書なら、遺言書は、役に立つ制度であると同時に、つねに、誰かに悔しい思いをさせてしまう制度ともいえる。遺言書は、被相続人が、相続人(多くは子供たち)に対し、誰か可愛く、誰が可愛くないかを言い残していく書面だからであり、それを相続後に示された子供たちの気持ちは複雑だと思う。
そのため、遺言書が作成されていても事は解決せず、遺留分減殺請求などの事件が発生し、事案によっては遺言無効確認訴訟まで起こされてしまうことになる。しかし、このような問題についてウルトラCの解決策が作られた。それが相続時精算課税制度であり、生前の遺産分割の可能性である。
今までは、生前の遺産分割は不可能とされていた(東京地裁平成6年11月25日判決 判例タイムズ884号223頁)。家督相続制度を廃止し、法定相続分による均等相続の制度と、遺産の最低取り分の趣旨である遺留分の制度を置き、相続開始前の遺留分の放棄には家庭裁判所の許可が必要(民法1043条1項)とする民法の理念からすれば、相続開始前の遺産分割が許されないのは当然のことである。
しかし、相続時精算課税の制度は、贈与の形式によってではあるが、生前の遺産分割を可能にした。贈与者が65歳以上の親であり、受贈者が20歳以上の子に限るとの制限があるが、しかし、親から子への贈与について、2500万円までは贈与税を課税せず、2500万円を超えた部分についての贈与税率も20%に軽減するとの特例である。20%の贈与税を納めることを覚悟すれば、どのような多額の遺産であっても生前の贈与が行えることになる。
では、父親が65才未満だった場合はどうだろうか。この場合にも抜け道が用意されている。相続時精算課税の特例制度、つまり、住宅取得資金等の贈与について3500万円までの非課税枠を設けた特例制度には、贈与者の年齢制限は存在しない。そして、住宅資金として、仮に500万円の贈与を受け、住宅を取得すれば、その後に行われる贈与については、贈与者の年齢を問わず、すべて、相続時精算課税の適用がある(速報税理平成15年4月1日号6頁)。つまり、子が20才以上であれば、何十億円でも、何百億円でも、20%の贈与税を納めることによって自由に贈与が行えるようにしたのが相続時精算課税制度なのである。
生前であれば、父親は子供たちに対し、配分の趣旨を説明した上での贈与が行える。父親が存命中に、その趣旨を説明して行った生前の遺産分割であれば、子供たちの理解も得やすく、相続人間に不和を生む可能性を大幅に減らすことができる。
生前に財産を贈与してしまうとの手法は、民法上は、今までも可能だった。しかし、仮に1億円を贈与すれば5839万円(平成15年の贈与税率の引き下げで4720万円)の贈与税が課税される制度のもとでは、多額の贈与を実行することは不可能だった。しかし、相続時精算課税を利用すれば、1億円の贈与に対して課税されるのは1500万円の贈与税に過ぎない。
そして、従前の制度では、納付した4720万円の贈与税は永久に戻って来ないが、相続時精算課税制度を利用して納めた1500万円の贈与税は、制度の名称のとおり、相続時には精算される贈与税である。そして、贈与税に比較し、相続税の方が遙かに有利であることは説明の必要もないと思う。
このように、今までは死後に行うことが当然であった遺産分割を、生前に行う制度に変えてしまったのが相続時精算課税制度である。
生前の遺産分割の制度を工夫すれば、事実上の家督相続の復活も可能になる。仮に、相続人として配偶者と4人の子がいる場合なら、そのうちの3人の子には、婚姻に際し、あるいは生計を独立する際に生前贈与を実行し、遺留分を放棄してもらうことにする(民法1043条1項)。そして、遺言書をもって妻と長男に対して残りの財産を相続させる。このような方法を採れば事実上の家督相続を復活させることが可能になる。
すべての財産を生前に相続人に贈与してしまう方法もあるが、資産家の場合は、この方法にはいくつかの問題がある。たとえば、贈与の時点での贈与税の納付が必要になるが、事業経営者の場合や、同族会社のオーナーの場合は、たとえ2割の税負担でも相当の高額になってしまうこと。それに、相続時精算課税の適用を受けた土地については小規模宅地の評価減(租税特別措置法69条の4)や、物納(相続税法41条)が認められないことなどである(現時点では未確認)。さらには、生前にすべての財産を贈与してしまうことへの不安もあるだろう。そこで、実行するのが遺言書と相続時精算課税の組合せによる家督相続制度の復活である。
事業を承継し、あるいは最後まで父母の面倒を見ることになる後継者を除いて、その他の相続人に対しては相続時精算課税を利用しての贈与を行い、遺留分を放棄してもらう。このような方法で、事業承継者を父親の存命中から確定してしまうとの家督相続を可能にしたのが相続時精算課税制度である。
株主代表訴訟の被告になって30億円の損害賠償請求を受けている取締役、あるいは、中小企業を経営し会社の債務30億円について連帯保証をしている経営者などが、個人財産を保全してしまう。これを可能にしたのが相続時精算課税制度である。
父親は、自宅を子に対し、相続時精算課税制度を利用して贈与してしまう。しかし、このような手法は、民法上は詐害行為取消権の対象になり、刑法上は強制執行不正免脱罪の対象になる可能性がある。
まず、詐害行為取消権を説明すれば次のとおりである。ある者に対して債権を有する者は、債務者が財産を処分してしまった場合は、その処分行為を取り消すことができるとの権利が民法424条に定められている。正確には、債権者を害することを承知の上で行った債務者の法律行為の取り消しを裁判所に請求することができるとの制度である。
したがって、株主代表訴訟の被告が、敗訴を予想し、自宅を子供たちに贈与してしまった場合は、詐害行為取消権によって贈与は取り消されてしまう。しかし、詐害行為取消権の行使には期間制限が設けられている。つまり、債権者が、その贈与の事実を知ったときから2年との期間制限(民法426条)であり、この期間を経過してしまえば詐害行為取消権は行使できない。
したがって、敗訴の判決が出る前、あるいは経営する会社が破綻する前であれば、自宅を子に贈与し、これを債権者が認識した場合なら、その後2年を経過してしまえば詐害行為取消権は行使できないことになるのだが、従前は、このような対策は、贈与税の問題があって実行できなかった。
そこで、贈与ではなく、息子への売買、あるいは親戚への売買などの方法を採る必要があったが、しかし、売買の場合には譲渡所得課税が行われ、かつ、買主は売買代金を準備しなければならない。そして、売主(債務者)には売買代金が入金するのだから、訴訟対策にも、債権者対策にも使えないことになってしまう。
しかし、相続時精算課税制度を利用すれば、売買代金を準備することなく、自由に財産を贈与できることになる。贈与の事実が、秘匿されたものではなく、堂々と実行されたものなら、贈与から2年間の経過によって、詐害行為取消権が行使される心配もなくなってしまう。
次に、財産隠ぺいについての刑事事件の問題について説明すれば次のとおりである。刑法96条の2の強制執行妨害罪であり、「強制執行を免れる目的で、財産を隠匿し、損壊し、若しくは仮装譲渡し、又は仮装の債務を負担した者は、2年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する」とされている。
賃料の回収について別会社を設立したことをもって、この条文に該当するとして弁護士が逮捕されて以降、危険な処理は行わないのが弁護士の常識ではあるが、しかし、強制執行についての現実的な問題が生じる前の贈与についてまで、この条文が問題になるとは誰も言わないはずである。
したがって、上場会社の取締役に就任し、潜在的な危険として株主代表訴訟を意識した段階、あるいは中小企業の経営について、将来の経営の悪化を意識した段階なら、相続時精算課税の適用を受け、子供に自宅を贈与してしまうのが有効だと教えるのが、今回の相続時精算課税制度である。
相続が発生した場合に、債務超過であることが明らかであれば相続を放棄し、債務超過の恐れがある場合なら限定承認の手続きを選択する。しかし、相続を放棄してしまえば一切の遺産は取得できないことになってしまうし、限定承認の場合も、所得税法59条の譲渡所得課税の問題が生じるほか、債務弁済手続について煩雑な処理が必要になる。
理屈は以上のとおりであるが、実際の相続は、それほど簡単ではない。たとえば、債務超過ではあるが、財産の一部はどうしても取得したいという場合などである。しかし、相続後に、仮に、財産の一部にでも手を付ければ、相続を単純承認したとみなされ、債務についても全額を承継することになってしまう(民法921条)。
このようなときに利用できるのが相続時精算課税である。父親の生前に、必要な資産を贈与してもらっておく。そして、相続は放棄してしまう。このような場合には、前述した詐害行為取消権が主張される危険があるが、しかし、仮にこれが主張されても、訴訟の段階で和解金を支払うなどして贈与財産を確保することが可能になる場合が多いはずである。
父親が事業を経営し、どのような債務が存在するか不明である場合、あるいは連帯保証債務が存在し、その負担が現実化するおそれがある場合も、相続時精算課税は利用できる。死亡後の財産処分は前述したように相続の単純承認になってしまうが、生前であれば、死期が迫っている場合であっても贈与であることに違いはない。
そして、通常の贈与の場合は、それが相続開始よりも前の年に行われた場合は贈与税が課税され、相続の年に行われた場合は相続税に取り込まれるのが原則であるが、相続を放棄した場合(死亡保険金のようなみなし相続財産もない場合)は、いずれの場合も贈与税の課税で終結することになってしまう。つまり、債務超過であり、相続税であれば税額が計算されない場合でも、贈与として、高額の贈与税が課税されてしまうことになる。
しかし、相続時精算課税の適用を受ければ、それが相続開始よりも前の年に行われた贈与の場合はもちろん、相続開始の年に行われた場合であっても、贈与財産は相続税の課税に取り込まれ、贈与税は精算の上で還付されることになる(相続税法施行令5条)。これは相続を放棄した場合も同様である(相続税法21条の16)。
したがって、父親が入院し、遺言書を作成するゆとりがある状態なら、その段階で作成すべきは遺言書ではなく、相続時精算課税の適用を予定した贈与契約書ということになるはずである。あるいは、それに先立って、仮に70才の誕生日を迎えたら資産と債務を計算し、債務超過の可能性があったら、財産はすべて息子に贈与してしまうとの方法も有効かもしれない。
相続時精算課税は、相続税ではなく、相続について有効な手段であることを説明してきたが、これが生前の贈与である以上は、今までの生前贈与と相続についての問題はすべて引き継ぐことになる。つまり、相続人間の特別受益(民法903条)の問題であり、遺留分(民法1028条)の問題である。
遺留分については、相続開始前の1年間に行われた贈与に限って遺留分減殺の対象になるが、それが遺留分権利者に損害を与えることを知って行われた贈与である場合は、1年より前に行われたものであっても遺留分減殺請求の対象に含まれるとされている(民法1030条)。
しかし、これは贈与が第三者に対して行われた場合の理屈であり、贈与が相続人に対して行われた場合は、民法1030条は適用にはならない。「相続人に対する贈与は……民法1030条の定める要件を満たさないものであっても、遺留分減殺の対象となるものと解するのが相当である」とするのが判決だからである(最高裁第三小法廷平成10年3月24日判決 判例時報1638号82頁)。つまり、相続人に対して生前に行われた贈与はすべて遺留分減殺請求の対象に含まれることになる。
相続時精算課税の適用を受け、生前に贈与を受けた場合は、その贈与時点での評価額を相続税の課税価格に加算し、相続税の納付税額が計算されることになる(相続税法21条の9)。しかし、生前に贈与を受けた財産が、相続時点まで消費されずに残っている保証はなく、相続税の納税資金に窮することが懸念されている。
仮に、生前贈与を受けた者が相続税を納めない場合は、他の相続人が連帯納付義務を負うことになるのは、通常の遺産分割の場合と同様である(相続税法34条)。したがって、前述したいくつかの方法、特に、遺留分の放棄と組み合わせて相続時精算課税を利用する場合は、残された相続人は、生前に贈与を受けた者の相続税について連帯納付義務が課されることを覚悟しておいた方がよい。
仮に、相続時精算課税の適用を受けた者が相続を放棄をした場合であっても、その者も相続税の納税義務者に含まれ(相続税法21条の16)、したがって、相続税額が算出され、それを納付しない場合は、他の相続人が相続税の連帯納付義務を負うことになる。
財産を処分することによって事前にトラブルを回避し、あるいは財産を確保するとの手法はいくつも存在したが、贈与税などの税負担が障害になり、それが実行できなかった。しかし、相続時精算課税は、将来の相続税に比較して税負担を増加させることなく、財産を自由に処分することを可能にした。極端な処理としては、養子縁組などを組み合わせれば、どのような財産処分も自由に行えるようにしてしまったのが相続時精算課税の制度である。これを極端な事例をもって紹介したが、実際には、さらに極端な利用法が登場することが想像されるところである。
(注) 本稿執筆時点では相続税法施行令と施行規則が入手できていない。もちろん、通達なども公表されていない。したがって、相続時精算課税を利用するについては、これらが公表され、相続時精算課税についての取り扱いが明確になるのを待つのが安全である。