課税関係についての動機の錯誤

 課税関係についての錯誤は、民法95条の錯誤として、契約の無効原因になるのか。この問題について最初に肯定的な判断をしたのは平成元年9月14日の最高裁判決で、事案の内容は次の通りです。

 Aは、昭和37年6月に結婚し、二男一女をもうけた銀行員だが、部下の女子行員と関係をもったため妻から離婚を申し渡され、妻から新宿区にある居宅に残って子供を育てたいとの条件を示された。そこで、Aは女子行員と裸一貫から出直すことを決意し、妻の意向に添う趣旨で、建物と敷地の全部を妻に財産分与することにした。その後、Aは女子行員と結婚して一男をもうけることになるのだが、Aは上司から、このような財産分与を行うと所得税が課税されるとの指摘を受け、試算したところ、2億2224万円余の税額になることがわかった。Aは、そのような課税がなされることを知っていれば財産分与は行わなかったから、財産分与契約は錯誤により無効だと主張して、元妻に対する本件不動産の移転登記の抹消を求めた………。

 このような事案について、最高裁は、「上告人(夫)は、財産分与の際に、被上告人(妻)に贈与税が課税されることを心配してこれを気遣う発言をした」との事実から、上告人には、《1》財産分与についての課税を重視していたこと、《2》自己に課税されないことを当然の前提としていたこと、そして、《3》その旨を黙示的には表示していたこと、《4》錯誤がなければ財産分与契約の意思表示をしなかったことがうかがわれると判断し、これを動機の錯誤として、民法95条が適用になると判示しました。

 次に、課税上の錯誤が問題になった事案は、交換特例についての東京地方裁判所平成7年10月2日判決で、事案は次の通りです。

 ×(法人)は、A(個人)との間に土地の交換契約を締結した。ところが、課税庁から交換特例の適用を否定され、2億7000万円の法人税が課税されることになった。交換特例が否定された理由は、譲渡資産が固定資産ではなかったことにあるようで、同時に、Aに対しても交換特例を否定するとの課税処分(所得税)が行われている。×は、異議申立、その後の審査請求を行うと共に、Aを被告として、交換契約の錯誤無効の訴を提起した。×の主張は、「交換差金等以外の課税問題が生じないことを前提として土地の交換契約を締結したところ、課税庁から法人税法50条の適用を否定された。これは民法上の錯誤に該当し、契約は無効だ」というものだった……

 このような事案について、裁判所は、「原告(×)及びA(個人)は、交換に当たり、双方に交換差金以外の課税問題を生じさせずに交換を実現できるという動機を相手方に表示しており、かつ、課税上の特例の適用が否定され、多額の課税負担を免れないとすれば、原告としては、本件交換の申し込みをせず、Aもその承諾をしなかったといえるから、この点は、本件交換契約の意思表示の内容の重要な部分、すなわち、交換契約の要素になっていた」と判断し、錯誤無効についての原告(×)の主張を認めました。

 上記の二つの判決をきっかけとして、《1》課税関係の錯誤には民法95条が適用になり、《2》私法契約を無効にすることによって課税処分を取り消してしまうことが可能だ……との理解が実務界に広がったのですが、そのような理解には、やや不安を感じるところがあります。

 財産分与についての最高裁判決には、恐らく、次のような判断があったと想像できるからです。

 財産分与は、実質上の夫婦共有財産の精算が主な目的ですが、銀行員の事案について、財産分与の効果を維持すると、一方は多額の不動産を取得し、他方は多額の租税債務を負担する結果になってしまう。これは実質的な夫婦共有財産の分割との趣旨に反する。このような判断です。

 つまり、最高裁判決は、あくまでも当該事案に限っての特殊事例だったと位置づけるべきではないかとの理解ですが、そのような理解を前提に交換特例の事案を考察すると、交換特例の事案について民法95条の錯誤を認めた東京地裁判決は、非常に表面的な考察で終わっているように思います。

 さて、課税関係のミスを、動機の錯誤として取り消してしまう。このようなテクニックは、最高裁判決を契機として実務家の知恵になっていったようです。その後、次のような幾つかの判決が紹介されることになりました。しかし、いずれの事案も、錯誤無効を否定しています。

 《1》 東京地裁平成13年7月5日判決 速報税理平成14年4月1日号36頁
 《2》 東京地裁平成13年11月2日判決 週刊税務通信2713号7頁
 《3》 東京高裁平成14年4月30日判決 税務事例2003年3月号27頁
 《4》 平成15年6月20日裁決 裁決事例65集

 この中で《3》の判決が示した理論は参考になります。要するに、節税スキームは、節税スキームであるが故に、錯誤にはならないとの次のような判断です。

 売買の時点において、×が本件出資の譲渡を受けたことについて贈与税が賦課されるかどうかは未確定であったものというべきであり、×は、本件スキームによって所期の目的が達せられ、相続税等を免れることができるのかどうかは未確定であることを認識していたものというべきであって、贈与税が課せられることはないと信じたものではない。そうすると、本件出資の売買の時点においては、×の内心の意思と客観的事実との間には何ら齟齬はなく、この点からしても×の錯誤無効の主張は理由がない。

 さて、財産分与の事例から始まった錯誤理論は、私法契約の結果だった課税関係について、逆に、課税関係の錯誤が私法契約を無効にするとの逆転した理屈を認めたとの意味では非常に価値のある判例理論でした。

 そして、これら判例理論は次のような実務上のテクニックも教えてくれているような気がします。つまり、課税上の疑問点を契約条項に取り込んでしまうテクニックです。

 例えば、交換特例について、特例の適用要件の存否に疑問がある場合は、契約書に、「本件契約について所得税法58条に定める交換要件に欠けるとの事実が判明したときは、当事者は、本件契約を遡って解除することが出来る」との特約を取り込んでおくという対策がとれます。

 課税関係の錯誤が、私法上の錯誤として、民法95条によって無効になるとの理屈が成立するのなら、課税の可否を、当事者間の契約に特約として取り込んでしまうことが許されないはずはないからです。



 その後、平成17年2月15日に高知地方裁判所で次のような判決が言い渡されました。この事案では、裁判所は「重過失」を理由に、納税者の請求を棄却しています。

 会社を承継するために、有限会社についての母親の持分を1口1万5000円で買い受けたが、その時点での正しい相続税評価額は10万2590円だった。この贈与について、当事者は税理士などの専門家には相談していない。

 当事者は、贈与の時点では、「出資の売買代金額1口当たりの1万5000円は、その実際の価値に見合った適正な金額であり、原告が贈与税を課されることはないと認識していた」との供述は信用できる。

 原告らが、「出資の実際の価値が10万2590円であると認識し……低額譲渡として5775万9700円の贈与税が課税されると認識して」いれば、贈与することはあり得ず、「原告が贈与税が課されることはないと誤信していたからこそ本件売買契約が締結されたとうべきである」。そして、「動機は……少なくとも黙示的には表示されていた」といえる。

 「原告らとしては、売買代金額及び贈与税を課されるか否かについて、税理士等の専門家に相談するなどして十分に調査、検討をすべきであり、そのような調査、検討を十分に行わないまま、安易に課税されないものと軽信した場合は、通常人であれば注意義務を尽くして錯誤に陥ることはなかったのに、著しく不注意であったために錯誤に陥ったものとして、重大な過失が認められる。

 その他、双方に重過失がある場合は無効を主張することが可能との原告の主張や、重過失の要件は相手方保護の規定なので、相手方が了解している場合は錯誤無効を認めても良いとの主張を排斥した。

 交換契約の錯誤を認めた平成7年10月2日東京地方裁判所判決(判例時報1576号51頁)も、税務訴訟では納税者が敗訴しています。その判決が平成12年9月29日東京地裁判決(月刊税務事例平成13年1月号)に紹介されています。

 民事訴訟で錯誤無効が認められた場合の課税関係に与える影響 ====

 原告は、まず乙交換取引が錯誤によって無効であると主張して訴えを提起し……原告と乙との間の甲交換取引については平成8年2月29日に当事者双方に錯誤があったとの理由により……甲譲渡土地、乙譲渡土地の所有権移転登記を抹消することを求めた原告の請求が認容される判決が言い渡され、その判断が確定したこと、及び丙との訴訟においては原告が国に対して訴訟告知をしていたことが認められる。

 しかし、右各判決理由中の原告に錯誤があったとの判断については、右各判決の既判力が及ぶものではないし、訴訟告知によるいわゆる参加的効力も、告知人である原告によって不利益な判断、すなわち、自己の主張が認められなかった部分や相手方の主張が認められた部分についてのみ発生するものであって、原告に錯誤があったとの点は、原告が自らの請求を基礎付けるために主張したものであるから、これを認める判断は原告に不利益なものとはいえず、いわゆる参加的効力が生ずる余地はない。したがって、当裁判所は、右各判決理由中の原告に錯誤があったとの判断に拘束されるものではない。

 契約に無効原因がある場合の損金計上時期 ===========

 原告は、無効であることが確定した事業年度において損金に算入することとするならば、当該事業年度において企業収益がマイナスである場合には、損金処理をしても意味がないから、実質的には所得のないところに課税をされたこととなり、租税法律主義に反する旨主張する。

 しかし、右のような事態はたまたま当該事業年度において企業収益がマイナスになったことに起因するものであって、原告が主張するのとは逆に、錯誤によって無効である契約をした事業年度においては企業収益がマイナスであり、無効であることが確定した事業年度においては企業収益が存在し、結果として損金処理が実効性を有することもあり得るのであって、たまたま原告の主張するような事態が生じたからといって、右の理が不合理であるということはできない。